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TAP the STORY

キャロル・キングにとってのターニングポイントは、27歳の時に訪れた

2014.06.07

ニューヨークの南端にあるリゾート地のコニー・アイランドで、後にキャロル・キングを名乗る少女が初めてレコーディングしたのは1945年、まだ3歳の時だった。

わたしの名前はキャロル・ジョーン・クライン、ニューヨーク州ブルックリン東24番街2466に住んでいます。


観光客用のスタジオで父と母の3人が、小さな録音ブースにぎゅうぎゅう詰めになって入り、家族の声をレコード盤に残したのだ。

幼い頃からピアノを通じて音楽に親しんでいた少女が、自作の曲でポップス・シンガーとしてデビューしたのは16歳の時だが、キャロル・キングの名前で出した2枚のシングル盤は不発で、栄光をつかむことが出来なかった。

作詞家を目指していたジェリー・ゴフィンと出会ったのもその頃で、二人はソングライターのコンビを組んで音楽出版社と契約し、曲作りに励んでいくうちに恋人同士となっていく。

17歳で結婚したキャロルは、まもなく母親になった。

黒人女性ヴォーカル・グループのシレルズに提供した「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」が、全米チャートの1位に輝いたのは1961年1月30日、キャロルが19歳の誕生日を迎える直前だった。

ここからゴフィン&キングはドリフターズの「アップ・オン・ザ・ルーフ」(全米5位)、リトル・エヴァの「ロコモーション」(全米1位)などのヒット曲を立て続けに生み出して、一躍ポップス界の寵児となっていく。ヒットメーカーとして大活躍するゴフィン&キングは、私生活でも二人の子どもにも恵まれて生活は順風満帆に見えた。

ところが1964年の初頭からビートルズの「抱きしめたい」が大ヒット、ブリティッシュ・インヴェイジョンがアメリカ中で吹き荒れると、アメリカン・ポップスは急速に衰退して二人の曲も以前ほどは売れなくなる。私生活にも少しずつ亀裂が入ってゴフィンと離婚したキャロルは、心機一転でロサンゼルスに活動の場を移すことにした。

東海岸と西海岸では寄稿や景色はもちろん、生活スタイルから流行りの音楽まで全然違っている。東でダメなら西で再チャレンジというのは、ミュージシャンの間でよくあることだった。

27歳を迎えたキャロルに人生のターニンポイントが訪れたのは、1969年のことだ。自分の内面をさらけ出してしまうのが不安で詞を書くという行為に消極的だったキャロルが、周囲の仲間たちの励ましもあって初めてソロ・アルバム「ライター」に取り組んだのである。

しかし、シンガー&ソングライターとして新しい世界に足を踏み出したキャロルには、まだ躊躇するところがあった。自分の歌に自信が持てないからと、人前では決して歌わなかったのだ。

長く裏方として活動してきたこともあって、成功してスターになるのが怖かったというのが理由だった。

ナンバーワンになりたくないの。1位になったら後は落ちるしか道がないもの。5位か10位でもいいから、長くそこにいたい


自分の書いた楽曲でたくさんのスターを生み出したキャロルは、次々にヒットを要求するレコード会社に追いつめられて、プレッシャーに押しつぶされる怖さを知っていた。スターの座を維持するためにファンやメディアに追いかけられて、プライバシーをなくすことの辛さも見てきた。

そんなキャロルの苦手意識を、半ば強引な方法で打ち壊してくれたのは、生涯の友人となるジェームズ・テイラーだった。

初めは一人でやっていく自信がなかったの。そんな私をジェームズ・テーラーはたくさん励ましてくれたわ。




キャロル・キング『つづれおり』
SMJ

TAP the POP 2周年記念特集 ミュージシャンたちの27歳~青春の終わりと人生の始まり〜

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