ダニー・ハサウェイを語るのに多くの言葉はいらない。
1970年、キャロル・キングは彼のデビューアルバム『Everything Is Evrything(新しきソウルの光と道)』を、親友であるジェイムス・テイラーやルー・アドラーなどに贈って「よく聴くように」と勧めていた。
また、アレサ・フランクリンとレイ・チャールズは“フィルモアウエスト”の舞台裏でダニーの話に花を咲かせていたという。
二人の率直な意見は「最高にイカした新人があらわれた」ということだった。
(ジェリー・ウェクスラー/アトランティックレコードの経営者)
この歌はレオン・ラッセルが作詞作曲して1970年に発表した曲で、翌1971年にダニー・ハサウェイがカヴァーし自身の名前をタイトルにした2ndアルバム『Donny Hathaway』に収録した。
後、彼の他にカーペンターズやレイ・チャールズ、テンプテーションズ、アレサ・フランクリン、ホイットニー・ヒューストンなど数多くのアーティストたちがレパートリーとしてきた珠玉の名曲だ。
僕は今までいろんな場所を回って
たくさんの歌を歌ってきた
まずい詞を作ったこともあったけど
僕はステージで自分なりに愛を表現した
数え切れない観衆の前で
でも今は君と僕しかいない
だから君にこの歌を唄っている
それは1979年1月13日の出来事だった。
彼は滞在中のホテルの窓から身を投げ、33年の生涯を終えた。
現場に争った形跡はなく、公式には自殺とみなされているが…彼の妻や友人は「自殺ではなく事故死だった」と主張している。
だが彼は長い間、いつ自殺してもおかしくない状態だったという。
一体彼に何があったというのだろう?
さかのぼること約10年…。
彼はワシントンD.C.にある黒人大学の名門ハワード大学に通っていた頃に知り合ったオペラ歌手のウララと結婚し、二人の娘を授かり、アーティストとしても順風満帆だと思われていたが、実はキャリアの絶頂期に深刻なうつ状態に陥り始めたという。
病気をコントールするために毎日たくさんの薬を飲まなければいけなくなり、生活は徐々に破壊されて入院を余儀なくされた。
事実上、彼の生前最後のオリジナルアルバムとなってしまった『Extension Of a Man(愛と自由を求めて)』を1973年にリリースした後、彼は人前から姿を消してしまう。
表舞台には立たず、裏方に徹しようと考えて制作会社を設立したのもこの時期だった。
彼の病は、それまで最高のデュエットパートナーとして友情を育んできたロバータ・フラックとの関係にもひびを入れ…お互いに数年間連絡を取らない状態が続いたという。
■ミュージックソムリエ:観客の熱狂にしびれるダニー・ハサウェイのライヴ~「きみの友だちーYou’ve Got a Friend」
http://www.tapthepop.net/sommelier/45993
(彼の死の2年前にあたる)1977年、療養生活を続けていた彼にロバータは「私達、もう一度やりましょうよ!」と、何度も熱心な説得をする。
その甲斐あって翌年、二人はスタジオに入り「The Closer I Get To You(私の気持ち)」という曲をレコーディングする。
ブランクを感じさせない二人の息の合ったデュエットは、当時多くのリスナーを魅了したという。
ロバータが彼を大切に想い“何か力になりたい”と思ってとった行動が、素晴らしい形となって実を結んだのだ。
彼もまた彼女の気持ちに一生懸命応えるかのように心を合わせ、苦しみを愛に昇華させて歌った。
リリースされた二人のシングルは、彼らにとって最大のヒット曲となり、百万枚を売り上げてゴールドディスクに輝くこととなる。
二人はすぐ2枚目のデュエットアルバムの制作にとりかかった。
そのアルバム制作中の1979年1月13日…マネージャーと共にロバータのアパートに行って夕食を共にした彼は、どこにも立ち寄ることなく滞在していたニューヨークのエセックス・ハウス・ホテルの部屋に戻ったという。
数時間後、彼の遺体がホテルの前の歩道で発見された。
ちょうどそこは彼が泊った15階の部屋の真下だった。
部屋の鍵は中から施錠されたままで、誰かと争った様子もなくガラスが窓枠からきれいに外され、ベッドの上に置かれていた…。
ロバータもマネージャーも、その日の彼の様子に全く異変を感じなかったという。
アルバムの完成を待たずして、彼は天国に旅立っていったのだ。
彼のキャリアが再び上向きになった矢先の出来事だったので、家族や友人たちは大きな衝撃を受け、ロバータはしばらくショックから立ち直れなかったという。
二人が取り組んでいたアルバムは、彼が亡くなった翌年に『Roberta Flack Featuring Donny Hathaway』というタイトルがつけられてリリースされた。