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フラワー・ムーブメントの幕明けを告げたヒューマン・ビー・イン

2025.01.04

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何万人ものヒッピーたちが1ヶ所に集まる。その初の試みが行われたのは、1967年1月14日のことだった。場所はサンフランシスコに位置する広大な公園、ゴールデン・ゲート・パークだ。

普段は地元の人たちが散歩をしたり、スポーツをしたりする憩いの場所だが、その日、公園のポロ競技場は、およそ2万人のヒッピーたちで埋め尽くされた。

入場料は無料、飲食も無料、さらにはマリファナやLSDといったドラッグまでタダで手に入るという、ヒッピーたちにとっては楽園のような場所だった。

ステージではグレイトフル・デッドやジェファソン・エアプレイン、そしてジャニス・ジョプリンを中心とするビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーがライブのほか、アレン・ギンズバーグやティモシー・リアリーといった知識人による演説も行われた。


ヒッピーのルーツは、ビートニクにあると言われている。第2次世界大戦後のアメリカでは、家庭や既存社会への反発からドロップアウトする若者が現れはじめ、彼らはビートニク、あるいはビート・ジェネレーション(打ちのめされた世代)と呼ばれるようになった。

居場所を失った彼らが、安住の地を見つけたのは1950年代後半のこと、その場所はサンフランシスコの北西部に位置するのどかな海辺の街、ノース・ビーチだった。

親、そして社会によって植え付けられた価値観を否定したビートニクは、身体を洗うことを拒み、髭を剃ることもなく、パーティーに明け暮れ、ドラッグに手を出し、愛し合う日々を過ごすのだった。

ところが1960年代に入ると、ノース・ビーチは都市化が進められ、高層ビルが建ち始める。それはビートニクにとって資本主義社会からの侵略であり、彼らはノース・ビーチに代わる新たな安住の地を探さなくてはならなかった。

そして辿り着いたのが、今ではヒッピーの聖地と呼ばれているヘイト・アシュベリー地区だ。ノース・ビーチの南西にあるこの地区は緑が多い住宅街で、高層ビルや商業的な施設もなく、彼らにとって理想の環境だった。

1960年代半ばになると、新たに多くの若者たちがヘイト・アシュベリーにやってきた。ケネディ大統領の暗殺後、ベトナム戦争に本格的に介入していくアメリカで希望を失い、社会からドロップアウトした彼らは、ヘイト・アシュベリーの噂を聞きつけて集まってきたのだった。

そこに行けば住む場所も食べ物もあるし、同じ境遇の仲間たちもいる、彼らにとってヘイト・アシュベリーはまさに楽園だった。ビートニクと同じく、既存の価値観を否定し、争いごとを嫌い、常に愛し合い、LSDが見せる幻想の世界で自由に生きる彼らを、メディアはヒッピーと呼び始めたのはこの頃からだった。

そんな彼らの運動、思想、哲学を全米に拡散させたのが、ヒューマン・ビー・インだった。元ハーバード大学教授でLSDの研究者でもあるティモシー・リアリーは、集まった人たちにこう呼びかけた。

「このシーンに傾倒し、起こっていることに同調せよ。
高校、大学、大学院をドロップアウトせよ。会社のつまらぬ役職からドロップアウトせよ。
我に従って、けわしい道をともに進もう」


これをきっかけに運動は拡散していき、ロサンゼルスやシアトル、ニューヨークなど様々な場所でヒッピーによる集会、イベントが催されるようになる。

その年の夏には伝説のフェス、モンタレー・ポップ・フェスティバルが開催され、フラワー・ムーブメントは隆盛を極めるのだった。

参考文献:
「ザ・ヒッピー フラワー・チルドレンの反抗と挫折」バートン・H・ウルフ著 飯田隆昭訳(国書刊行会)


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