1965年4月20日に発売された「涙の太陽」は歌詞がすべて英語、その年から本格化したエレキ・ブームでにふさわしいサウンドで大ヒットした。
歌ったのはエミー・ジャクソンという名前の若い女性だが、はじめのうちは正体があいまいで殆どの人は外国の曲かと錯覚していた。
レコードも日本盤の330円ではなく、370円と洋楽の価格であった。
レコード盤にも「R.H.Rivers Y.nakashima」と、ソングライターの名前が外国曲であるかのように記載されていた。
だがこの歌は日本人によって作られた洋楽テイストの楽曲で、和製ポップスの第1号だった。
作詞したのはポピュラー音楽の評論家として活躍していた湯川れい子、名字の「湯川」をもじって「Hot Rivers」となった。
エミーの本名は深津エミ、父方の祖父が英国人で英国生まれの日本育ち、当時は横浜のカトリック系学校を出たばかりの18歳だ。
ではどうして日本語を話すエミーを外国人シンガーのように仕立てて、日本コロムビアのCBSレーベルから洋楽扱いでリリースしたのか。
1960年代半ばまでの作詞家や作曲家はほぼ全員、どこかのレコード会社との間で専属作家契約というものを結んでいた。
そうしなければプロとしては認められなかったし、作品がレコードになる可能性はあり得なかったといっていい。
逆に言えば専属作家になることで、初めて作詞家や作曲家と認められたのである。
そうしたシステムにもかかわらずフリーの道を自ら選らんだのは、ジャズ出身でポップス系作曲家となった中村八大を筆頭に、浜口庫之助、宮川泰、いずみたく、作詞家では永六輔、岩谷時子、安井かずみなど、数えるほどしかいなかった。
日本でもっとも古いレコード会社だったコロムビアに大蔵次官を経験した大物官僚、長沼弘毅が代表取締役会長として送り込まれたのは1963年のことだ。
そこには大株主だった野村證券の意向が反映されていたという。
シャーロック・ホームズの研究家として文壇でも知られた文化人でもあった長沼は、1964年の東京オリンピックを機に国際化する音楽産業を近代化し、発展させていくことを期待されていたようだ。
しかし長沼が打ち出す理詰めでクールな方針は、表もあれば裏もあるという芸能界と折り合いをつけながら、大衆向けに流行歌を作ってレコードを売ってきた現場の人間たちには、頭では理解できても急にはなじめないものだった。
その結果、経営者と現場との軋轢が抑えきれなくなって内紛が勃発し、叩き上げの実力者だった取締役の伊藤正憲が退社に追い込まれてしまう。
やがて伊藤を支持する専属作家や歌手、優秀なディレクターたちがまとまって独立、1963年の秋にはクラウンレコードが発足することになった。
1964年に入るとビートルズのレコードが日本でも発売されてヒット、それに続いたローリング・ストーンズやアニマルズによってブリティッシュ・インベイジョンが押し寄せた。
一方ではアメリカ発のエレキブームが巻き起こって、1965年初頭の来日公演でベンチャーズがブレイク、爆発的な流行になっていったのだ。
そんなタイミングで発売された「涙の太陽」は、エレキブームを象徴するトレモロ・グリッサンドの音、“テケテケテケテ…”を多用して成功した。
突然、作詞を頼まれた湯川れい子がその辺りの経緯を語っている。
ジャズ・シンガーの沢村美司子さんのお兄さんで、アメリカのカレッジで学んだ中島安敏さんという人が府中の米軍払下げの家に住んでいてね。
当時私がDJをしていたラジオ関東の『ゴールデン・ヒット・パレード』のプロデューサーだった大谷亘さんから「今度の日曜日に中島さんの家に来てくれ」と言われて行ったの。
そこでいきなり「中島さんが書いたこの曲に英語で詞を書いてくれないかな?」と頼まれて、その場ですぐに書いたのよ。
時間もない中で20分足らずで書き上げると、お礼に2千円を受け取ったという。
中島安敏はカリフォルニア州のサンタモニカ・カレッジを卒業、ジャズの教育を行っていた West Lake College of Music の編曲科で学んで帰国した。
湯川れい子もまた1964年の秋に初めてハワイからニューヨークにわたり、本場のジャズやポップスのショー、ミュージカルを体験してアメリカから帰国したばかりだった。
ラジオ番組でアシスタントをしていた女の子が「歌がうまいから、彼女に歌わせよう」と考えたのはラジオ関東の大谷、それを洋楽として発売する仕掛けを実行したのがコロムビアの洋楽にいた泉明良ディレクターである。
この曲を最初に日本語でカヴァーしたのはアメリカとのハーフだった青山ミチで、ポリドール・レコードから日本語の歌詞でリリースされた。
作詞は湯川れい子が担当して英語と日本語の競作という形になったが、大ヒットにまでは結びつかなかった。
しかし作詞家の湯川れい子が初めて、正式にクレジットされたのである。
日本語の「涙の太陽」が大ヒットするのはそれから8年後、1973年に安西マリアのカヴァー・ヴァージョンが登場してからになる。
〈参考文献〉和田靜香 著「音楽に恋をして♪ 評伝・湯川れい子」(朝日新聞出版)
湯川れい子の発言は「ニッポンの洋楽の立役者たち 音楽評論家・湯川れい子インタビュー①」からの引用です。https://entertainmentstation.jp/6838