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新生RCサクセションを率いる忌野清志郎27歳、 「よォーこそ!」で幕を開けた新時代 

2023.05.05

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1978年4月2日、忌野清志郎は27歳になった。
高校時代にバンドを結成してから10年を迎えたRCサクセションはその頃、ヒット曲もなければ仕事もないという無作為の日々が2年以上も続いていた。
後に暗黒期と呼ばれる時期にあたるが、もともとアコースティック・トリオだったバンドは、その頃からエレクトリック志向を打ち出し始めていく。

そうした変化についていけなかったのが、オリジナル・メンバーだった破廉ケンチである。
やがてうつ状態からギターが弾けなくなって1年ほど休み、復帰したもののブランクは取り戻せず1977年に脱退した。
RCサクセションは外から見ていていると、存続の危機を迎えているようにも映った。

1978年10月27日、東京・渋谷のライブハウス「屋根裏」で行われたライブは「よォーこそ」で始まった。
短い髪の毛をツンツンに立てた清志郎はその日、顔に薄っすらとメイクを施していた。

冗談半分で化粧してステージに上がったら、スタッフなんかから大ひんしゅく買ってさ、「清志、ちょっとないんじゃない」って。
でもおれはおかまいなしでさ、ファン・サービスみたいなもんだよ。
どんどんエスカレートしてさ、髪まで逆立てて‥‥‥スプレーぶっかけてね。(注1)



その日の第2部では意外なカヴァー曲、誰もが知っている「上を向いて歩こう」が披露された。

この時期からRCサクセションに参加して清志郎にとって生涯の朋友となる仲井戸麗市は、当時の気持ちをこのように語っている。

あの頃はメンバーもまだ探しつつ、自分たちの新しいステージングを考えながら……清志郎くんもギターを持たなくなって。
パンクみたいな時代の波もあり、俺たちも長髪だったのを髪切ってとかいろんな模索しているなかで、渋谷の屋根裏っていうライブハウスがあって、そこで新しいRCが形作られていくんだけど、その当時増やしたライブレパートリーの一つが「上を向いて歩こう」だったと思う。
ある日、清志郎くんが「こんなの演ろうよ!」って始まったと思う。
〈略〉
でも坂本九さんのアレンジそのままでは演れないってことで、「ロックンロールにしよう!」ってのは、明確にあったと思う。
それで実際にアレンジして、ステージで演りだしたっていうのが始まりだった。


忌野清志郎は屋根裏での定期的なライブで「上を向いて歩こう」を演奏するとき、必ず「日本の有名なロックンロール!」と紹介するようになっていく。
それから重要なレパートリーとなった「上を向いて歩こう」は、ライブの後半にさしかかって「雨あがりの夜空に続く流れのなかで、必ず大きな盛り上がりをもたらす楽曲として定着する。

そして新生RCサクセションの再デビュー・シングル「ステップ!」のカップリング曲として、1979年7月21日にリリースされたのである。

「A面にしたかったんですけどね。強力な反対にあってB面にまわされてしまいました」と、清志郎は後に語っている。(注2)
そうした本人の意向が反映されなかったことが関係したのかどうかは定かでないが、シングル「ステップ!」はまたしてもヒットしなかった。

しかし新生RCサクセションの熱いライブ・パフォーマンスは、口コミで評判になってアンテナ感度が高い若者たちの間で噂が広まっていった。

同じ時期に一人の女性、フリーライターの吉見佑子が一ファンとして素朴な疑問を持った。

「どうして『シングル・マン』のレコードが手に入らないの?!」


今でこそ名作の誉高い『シングル・マン』だが、不遇の時代だった1976年に発表された時は、メディアからも音楽ファンからも無視された作品だ。
そもそもレコーディングが1974年に行われたにもかかわらず、所属事務所の移籍にまつわるトラブルに見舞われて陽の目を見ず、やっと発売されたのは1976年になってからだった。

しかし、1月21日に発売した先行シングル「スローバラード」が不発に終わり、4月21日に発売されたアルバムもまったくといっていいほど売れなかった。
発売元のポリドールはわずか1年足らずで、それを廃盤の扱いにしたのでレコードは店頭からなくなった。

吉見は手に入らない状態にあった『シングル・マン』を再び世に出すために、友人や知人に声をかけて協力を求めた。
その中にはマスコミで働く人間もいて、何かと応援してくれた。

「有志で再発売実行委員会を設立してレコード会社に働きかけたらどう?」という、効果的なアイデアをもらったのは週刊少年ジャンプの編集者だった集英社の堀内丸恵からだった。
その話に乗ったのが、RCサクセションのレーベルだったキティの社員、海外担当の宗像和男である。
彼が特別宣伝マンとして自ら事務局の役割を買って出て、再発売実行委員会は存在感が出てきた。

そして宗像の交渉によって発売元のポリドールがようやく重い腰を上げ、300枚とわずかな数ながらも限定発売が決まる。
ここから追い風が吹き始めて、RCサクセションを取り巻く世界は大きく変わっていく。

新曲の「ステップ!」が不発に終わったにもかかわらず、11月に復刻された『シングル・マン』は限定300枚がすぐに完売になった。

今では伝説になっている青山の輸入盤店「パイド・パイパー・ハウス」に200枚、池袋西武「アール・ビ・バン」と国立の「レコード・プラント」に各50枚が納品されたが、どちらもわずか10日間で売り切れてしまったのだ。

追加で500枚がプレスされたが、それもまもなく完売した。
ライブの観客も増えたRCサクセションは完全に軌道に乗り始めて、その後の日本のロック・シーンをリードしていく存在となっていく。

さらに再追加の700枚が作られたが、それもまた売り切ってしまったので、幻のアルバムは1980年の夏にポリドールから正式に再発売になった。
新生RCサクセションのエネルギッシュな演奏と派手なパフォーマンス、忌野清志郎のソウルが組み合わされたステージは、まさに新しい時代の幕開けを告げるものだった。



*メイクを施し
ボブ・ディラン、デビッド・ボウイ、KISSらの影響もあって、忌野清志郎がメイクを始めたのは1978年秋のこと。

*トラブルに見舞われて
所属していたプロダクションで井上陽水の独立をめぐって起きた問題のあおりを食らい、契約上の問題から完成後にお蔵入りになってしまった。

*ポリドールから正式に再発売
再発売されたLPレコードの帯には、次のようなコメントが掲載された。

このアルバム『シングル・マン』は、4年前に発売されあえなく廃盤になっていたものです。しかし、このアルバムを今一度世に出したいと、吉見佑子さん、パイドパイパー・ハウス岩永正敏さん、ART VIVANT芦野公昭さん、堀内丸恵さんその他数多くの方々のご協力により「再発実行委員会」がつくられ、昨年末より自主限定発売がされていました。プレスされるたびに売り切れとなり、手に入れられない方や、東京以外の方から苦情が相ついでいましたが、このたびどこでも手に入れられるよう再発売できるようになりました。ひとえにRCサクセションを支持して下さるファンの皆様、そして再発実行委員会に直接、間接にご支援いただいた皆様の熱意のおかげと深く感謝しています。レコード会社としまして、こんな素晴らしいレコードを廃盤にしていたことを恥じ入り、反省している次第です。

(注1)連野城太郎著「GOTTA(ガッタ)!忌野清志郎」 (角川文庫)
(注2)今井智子著 おおくぼ ひさこ(写真) 「Dreams to Remember ~清志郎が教えてくれたこと」(飛鳥新社)

*このコラムは2015年5月1日に初回公開されました


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