1991年にイギリス政府によって創立されたブリット・スクールは、アーティスト養成を専門とした学校だ。政府の補助金に加えて、英国レコード産業協会がスポンサーとなっており、学費はすべて免除される。
のちにグラミー賞で数々の賞を獲得することになるアデルが、この学校に入学したのは2002年、14歳になった年のことだ。
ブリット・スクールに入った頃は、表舞台に立つつもりなどなく、音楽業界で何か仕事を得られればという気持ちだったという。
そんな彼女にシンガーになりたいという気持ちを抱かせたのが、エタ・ジェイムズやエラ・フィッツジェラルドといった、1950年代から活躍していた女性シンガーたちだ。(詳しくは前回のコラムをどうぞ)
彼女たちは誰の書いた曲であろうと、見事に自分のものにしてみせた。その歌を聴いたアデルは、自分もそうした本物のシンガーになりたいと思ったのである。
こうしてシンガーを目指し始めたアデルだが、その方向性を大きく変えることになるアルバムがリリースされたのは、ブリット・スクールに入学した翌2003年のことだった。
その作品が、エイミー・ワインハウスのデビュー・アルバム『フランク』だ。ブリット・スクールの先輩でもある彼女のアルバムを聴いたアデルは、その歌と言葉に衝撃をうけたという。
「彼女は(2ndアルバムの)『バック・トゥ・ブラック』でアメリカでも人気になったわけだけど、私にとっては1stアルバムの『フランク』が、あのアルバムが私の人生を変えてくれたの」
幼い頃から歌うのが好きだったアデルだが、シンガー・ソングライターのように自らギターを弾いて作詞作曲しようとは思っていなかった。
「もしエイミーと『フランク』がなかったら、100パーセントギターを弾いてないわ」
エイミーが書いた歌は自身の恋愛について書かれたものが多いが、その言葉に格好つけや飾り気はなく、生々しいほどにプライベートを曝け出している。
未練がましさといったネガティヴな感情も含め、自分の全てを嘘偽りなく晒した言葉だからこそ、全身全霊をぶつけて歌うことができる、そう思わせられるほどの真実味と説得力がエイミーの歌にはあった。
アデルはそんな彼女の姿に、彼女の歌に憧れ、ギターを手にし、自身の感情の全てを注ぎ込めるような歌を求め、作詞作曲をはじめるのだった。もし自分で曲を書くようになっていなければ、レコード会社と契約してデビューすることなど出来なかっただろうという。
「私が契約したときのレパートリーは、どれも自分で書いたものだったわ。もし彼女がいなかったら、そうはならなかったでしょうね。私のキャリアは90パーセントが彼女からの借り物なの」
そんな敬愛すべきエイミー・ワインハウスが亡くなったのは2011年の7月23日。訃報を知ったアデルは、自身のステージでエイミーへの思いを、ボブ・ディランの「メイク・ユー・フィール・マイ・ラヴ」に乗せて歌っている。

●エイミー・ワインハウス『Frank』

アデル『19』
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから