戦後、ジャズの中心地となったのは銀座だった。
GHQ本部が有楽町駅近くだったこともあり、この地域には外国人向けのクラブが多く生まれ、ジャズ以外にもシャンソンやカントリーなど、様々な海外の音楽がこの街で流れていた。
1951年頃から、わずか19歳でプロとして活動をはじめたジャズ・ギタリストの高柳昌行が、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で活動を始めたのは1958年のことだった。
ジャズの演奏ができる場を探していた高柳は、知人のシャンソン・ギタリストらに相談すると、彼らが出演する「銀巴里」で、一番客の少ない金曜日の昼間に演奏させてもらえることとなったのだ。
「フライデー・ジャズ・コーナー」として始まったその集まりは、やがて「新世紀音楽研究所」と名を変える。
「芸術のあり方の本質を追求する」「聴衆から離れたひとりよがりな活動をしてはならない」などいくつかの規律を掲げ、日野皓正や山下洋輔などのちにジャズ・シーンを牽引していくことになる多くのプレーヤーが加わって、互いに切磋琢磨していった。
しかし1963年6月、高柳は麻薬所持容疑によって逮捕、懲役1年の実刑判決を下されてしまう。
評論家であり、銀巴里では司会を務めていた相倉久人氏によれば、それは他のジャズメンへの見せしめであり、「すでにクスリとは決別していたのだが、この業界の災厄を背負わされる形でひとり貧乏クジを引いた」のだった。
そこで刑務所に入る1週間ほどの6月26日に急遽、深夜リサイタルが企画される。高柳のほかに金井英人、稲葉国光、菊地雅章、日野皓正、中牟礼貞則、山崎弘、宇山恭平、山下洋輔が集まり、折しも麻薬所持による服役を終えて出所したばかりのドラマー、富樫雅彦も参加することとなった。
その時の演奏は医者であり、日本のジャズ・シーンを支え続けてきた“ドクター・ジャズ”こと内田樹によって録音され、9年後の1972年に『銀巴里セッション』としてリリースされることとなる。
高柳が参加しているのは1曲目の「グリーン・スリーヴス」、イングランド民謡の中でも特に有名な曲の1つだ。
「グリーン・スリーヴス」とは直訳すると「緑の袖」という意味だがその解釈には諸説あり、中でも有力とされているのが性的に乱れた女性、つまりは娼婦を暗喩しているというものである。主人公は娼婦の誘惑に落ちるも、その愛が届くことはなく見捨てられてしまうのである。
いわば「グリーン・スリーヴス」は誘惑の象徴であり、当時のジャズマンにとってそれは麻薬だった。そしてその問題を背負わされてしまった高柳は、これから刑務所に入らなくてはいけないという状況の中、「グリーン・スリーヴス」で渾身のギター・ソロを展開する。
それから1年後、刑期を終えて出所した高柳を待っていたのは、以前とは違う「新世紀音楽研究所」だった。メンバーの意識や「銀巴里」からの要望が変化したことにより、規律にひずみが生じたのだ。そして「新世紀音楽研究所」は解決の糸口を見いだせずに消滅してしまうのだった。
しかし、そこで育ったミュージシャン、そして残された音楽はその後のジャズ・シーンに多大な影響を与えることとなる。
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