1983年の11月から12月にかけて雑誌『FMファン』での対談で、大瀧詠一の「分母分子論」は発表された。
それはジャズ評論家の相倉久人を先生として、生徒の大瀧が明治以来の輸入文化として発展した日本の音楽史を、独自の理論で語りながら展開していく歴史的な会話だった。
1984年にはシンプジャーナルの別冊として出版された『ゴーゴーナイアガラ』に収録されて、その面白さは熱心な大瀧詠一のファン以外にまで伝わった。
21世紀に入ってからも2005年刊行の『文藝別冊 大瀧詠一』と、2012年の『KAWADE夢ムック 文藝別冊 増補新版 大瀧詠一』にも再掲載されて、日本のポピュラー音楽の歴史について書かれた最も信用のおける論考として現在に至っている。
「分母分子論」の面白さは、とにかく具体的でわかりやすいところにある。
明治以来の日本の音楽はすべて洋楽(世界史)からの輸入だから、分母は「世界史」としてあり、そこに分子として「日本史」が乗っかっている構造が基本だ。
具体的には「世界史」は洋楽のサウンドと歌詞(英語もしくは欧州の言語)であり、「日本史」とは日本語の歌詞とそれを反映させたメロディである。
戦前の歌謡曲の大御所である古賀政男や服部良一といった先駆者たちも、ジャズやブルースやタンゴなどの洋楽を分母にして、「世界史分の日本史」となる楽曲を作っていたというように見ていくのだ。
たとえば古賀の「酒は涙か溜息か」はドイツ民謡のメロディをアレンジしたものに、日本語の歌詞を乗せて作られた「世界史分の日本史」ということになる。
しかし時間の経過とともに分母が忘却されていくことで、「日本史」のみが残ったことによって「酒は涙か溜息か」に影響を受けた作品は、「日本史分の日本史」=演歌として理解されるようになったということだ。
相倉はそれに頷きながら「オリジナルを問うとラッキョウの皮むきになって、何も残らなくなる」と、日本が文化を消化していくパターンと同じだと言葉をはさんでいく。
戦後のジャズを分母にした歌手として、フランク永井とペギー葉山が次のようにわかりやすく語られている。
フランクシナトラになりたくて (名前も)フランクにしたし、ペギー・リーになりたくてペギーにした人たち。この人たちは初期の頃は向こうの歌を原語で歌ってレコードも出してるんだけど、まあ売れない。それでフランク永井は「有楽町で逢いましょう」、ペギー葉山はなんと、民謡をこぶしなしで歌ったという「南国土佐を後にして」になる。
こういう歴史的事実に即して、流行歌やヒット曲が大瀧によって次々に分析されていくのである。それを受ける相倉も、阿吽の呼吸で相槌を打ったり、フォローを返して対談は快調に進む。
相倉 (美空)ひばりなんかもジャズ分の何がしかです。ブギウギから出てきてるでしょ。で、美空ひばりはその時々とうまく折り合いをつけていくんです。たとえば、ロカビリーの時代は「ロカビリー剣法」とか。
大瀧 そこから先に、「世界史分の日本史」にどういう人が到達するかというと、まずGSですよね。そのころ、世界史のほうが大きく転換するんですよ。何かというとやはりビートルズの出現。そしてそれと同じくらい、日本でのみ通用する世界史として有名なベンチャーズ。ようするにエレキブームです。ビートルズはGSですよね。この時代に「世界史分の日本史」が突入するわけです。だから、美空ひばりはこの時代のGSと折り合いをつける。「真っ赤な太陽」で。あの人の動きを見ていると、ひとつの歌謡史ですね。
ロックもしくはビートルズという「世界史分の日本史」として取り上げられたGSの特徴は、楽曲がオリジナルだったところにあると大瀧は分析していく。
日本人が作曲した英語で歌うと言う現象が出てきた。加山雄三の最初のアルバムは、全部自作で英語ですよ。ブルー・コメッツの最初のヒット曲である「ブルー・アイズ(青い瞳)」も英語だったんです。だから、最初は洋楽をベースにしていたけど、あまりヒットしなくて、日本語のヒット曲になっていく。そのへんで完全に「世界史」になっているんですね。
それに、この時代にはオリジナルですから作家が出てくる。阿久悠、井上忠夫(大輔)、筒美京平といった人たちが出てきます。これが終わって、次にフォークになるんですよ。フォークを分母にしたのが、たとえばマイク真木、小室等、岡林信康ですよね。これがGSと並行しながら70年代のちょっと前に出てくる。
そして自分のバンド、はっぴいえんどについてはこんなふうに語られていた。
大滝 フォークとGSの流れをベースにして出てきた人たちがいるんですよね。まぁ、なぜかこれは多くなくて、1つのバンドしかないんですよ。これがいいたかった(笑)。
相倉 これが面白い!(笑)
大滝 このグループは、その当時バッファロー・スプリングフィールドであったりとか、ニュー・ロックのようであったりという形で出てきたわけですが、実はその山の下に抱えるものは、広沢虎造から三遊亭円生まであったと言う…。
この時の対談で相倉久人から「すごく面白い」とのお墨付きをもらって、大瀧詠一はさらに実験と発展を重ねて、1991年に「ポップス普動説」を発表することになる。
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