日本にロックンロールが上陸したのは、映画『暴力教室』が公開された1955年8月21日と言っていいだろう。非行化防止のために青少年に観覧させないようにと、当時の文部省は地方の教育委員会に通達を出している。
ジャズのヴォーカル・スクールに通う17歳だった平尾昌晃は、ロックンロールの衝撃をこう語った。
主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が決定的だった。ジャズはおしゃれで好きだが、映像とビートの効いた音楽が一緒に目に飛び込んできた衝撃は忘れられない。
その翌年にはアメリカでエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」が大ヒット、日本でも6月に小坂一也とワゴン・オールスターズが日本語でカヴァーしたレコードを発売した。
当時はラジオがまだNHKしかない時代で、娯楽番組の主流は野球や相撲の中継、落語、講談、浪曲が主流だった。しかし進駐軍の基地がある地域ではアメリカ軍に向けたラジオWVTR(FENの前身)で、最新の音楽をたっぷり聴くことができた。
日本の若者たちの多くはそこで初めて戦後のジャズを聞き、エルヴィスを知ったことでロックンロールの歌手に憧れた。
「何回聞いても、何て言っているのかわからない。でも聞いていると気持ちよくなって歌いたくなった」
そう述懐するのは、日本に洋楽を広めたDJの小林克也。当時は15歳だった。また、音楽評論家で作詞家でもある湯川れい子は20歳になっていたが、こう述べている。
「何これ? って。ものすごくスリリングで、今の表現で言えばセクシーで、『ゾクゾクするような音楽』」だった」
その頃、平尾は慶応高校に通いながらも、米軍キャンプで演奏するバンドのヴォーカルとして、こっそりジャズやカントリーを歌っていた。しかし、エルヴィスを知ってからは、すぐに自分なりに想像して彼の曲をカヴァーし始めたという。
当時はエルビスの映像や資料が少なくて、映画もなかなか日本に入って来ない。何を着ているのかも分からない。そこは勘を働かせるしかなかった。彼の歌を聴いていると「これは体を動かしながら歌っている」「ギターを下げて弾いている」ー。彼の姿が目に浮かんで自己流でエルビスを作り上げていた。
カントリーからロックンロールに変身した平尾のバンドは、銀座のジャズ喫茶「テネシー」に出演するようになって急速に人気が出る。
若いファンたちがどっと押し寄せたことからソロ・デビューの道が開け、映画出演もつながり、日劇ウェスタンカーニバルが企画されることになった。
それが平尾の人生におけるターニング・ポイントで、音楽家への道はそこから開けていったのである。
〈参照コラム〉ジャズブームが終息して日本でロックンロールが爆発した「日劇ウェスタンカーニバル」
後に「ロカビリー3人男」と呼ばれるメンバーが顔を合わせたのは、日劇で行われた前日のリハーサルだった。それぞれが各地のジャズ喫茶に出演していて忙しかったので、店での仕事が終わった夜遅くになって日劇に集合した。
ミッキー・カーチスは池袋、新宿は山下敬二郎で、私は銀座。ファンの間では3人は有名だったが、僕は2人の名前は知っていても人となりまでは…。せいぜい敬ちゃんが柳家金語楼さんの息子というくらいの知識だ。
3人は初対面だったが最初から打ち解けて、4000人を収容する観客席を見ながら、「ここで本当に歌うのか」と不安になったという。
200人も入らないジャズ喫茶と比べると客席が壁のようで、2階席もキャバレーと規模が違うし高さも比べものにならない。「大丈夫か」と3人で顔を見合わせた。午後11時ぐらいに集まって音出しは午前2時頃。どれだけ力量があるのか分からなかったがリハで聴いたら2人ともいい声だった。朝までリハをこなして楽屋で寝て本番を迎えた。
しかし、出演者たちの不安は翌日の早朝から集まった大勢のファンの騒ぎで、たちまちのうちに吹き飛んでしまった。第一回日劇ウエスタン・カーニバルには初日だけで9500人が来場し、一週間では4万人を越える観客動員数を記録した。
一夜にしてロカビリー旋風は日本中の注目を集める現象となり、興行としても大当たりをとってシリーズ化して伝説になっていく。
1週間の興行が終わった後、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」でロカビリー3人男はこんな感想を語り合っていた。
平尾:僕が一番嬉しかったのは、今まで一生懸命大人気ないことをやっていて、いつの間にか20才になっちゃった。それでこのままでは一体いけないのかと考えている矢先に、ワァーッと認められたので本当に嬉しい。
ミッキー:僕もこのショウに出られたことが第一に嬉しいけど、お客さんにわかってもらえたと云うことも本当に嬉しいな。
ずっと馬鹿にされていた自分たちの音楽が、一流の劇場で大量に観客を動員したことで、始めて世間的に認められた喜びが伝わってくる。
山下も「ウェスタンなんかは異端視されて、まま子扱いされていたんです」と語っていたように、大人たちはほとんど誰もが「あんなものは音楽じゃないから駄目だ」と言っていた。
マスコミに影響力を持っている評論家で、日本テレビのプロデューサーだった井原高忠などは、その後も「ロックというものは音楽と云えるしろものじゃない」と手厳しかった。
しかしここから日本では新しい音楽シーンがスタートし、およそ10年後にはエレキブームや加山雄三ブームが起こっている。そして1966年のビートルズ来日などを経て、歌謡曲は黄金時代を迎えることになるのだ。
平尾昌晃はロカビリー・ブームの頃から自作自演の「ミヨちゃん」をヒットさせるなど、すでにソングライターの才能を見せていた。
そして結核を患ったことで歌手から作曲家へと転身し、やがて歌謡曲の世界で数々のヒット曲を生み出して、歌手時代を超える華々しい活躍をしていく。
(注)平尾昌晃氏の発言は2017年2月から3月にかけて、スポーツ報知で連載された【平尾昌晃・生涯青春】からの引用です。
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