新番組『SNL』の最後のキャスト枠に滑り込んだジョン・ベルーシ
TVなんてクソ喰らえだよ! どのチャンネル回しても下らない番組ばかりじゃねえか。自慢じゃねえけど、俺はこれまでオンボロの白黒TV一台しか持ったことないぜ。それも俺の吐いた唾でベトベトになったやつ!!
1975年の夏。NYマンハッタンのRCAビル17階のオフィス。窓からはロックフェラー・プラザの名物スケートリンクが見下ろせる。三ヶ月後に控えたNBCの新番組のプロデューサーに抜擢された29歳のローン・マイケルズは、髭面で小太りの26歳の男からそんな言葉を浴びせられていた。その名はジョン・ベルーシ。
イリノイ州シカゴで生まれたベルーシは、高校卒業後は大学に適当に通ったり、デモに参加したり、好きな音楽を聴きながら、コメディ即興劇団『セカンド・シティ』の一員として活躍。その後、人気コミック誌『ナショナル・ランプーン』が企画したオフ・ブロードウェイ『レミングス』のスターとして、風刺ジョークやロック音楽を詰め込んだ芝居でそこそこ名の知れたコメディアンになっていた。
数週間後、マイケルズはオーディションにベルーシを呼ぶ。「何で今さら俺がテストされきゃいけねえんだよ」と思いながらも、心の片隅ではこの新しい番組に可能性を感じていたベルーシは、意表をついたサムライの恰好で登場して会場を爆笑させる。マイケルズは確信した。このカリスマ性の強い男なくして番組の成功は絶対にあり得ない。こうしてベルーシは『サタデー・ナイト・ライブ』最後のキャスト枠に滑り込んだ。
素人同然だった番組制作スタッフ
マイケルズには野望があった。18〜34歳はTVにまったく無関心になっている。TVは腐った政治家たちの選挙道具じゃない。制作側やシステムにも問題がある。もっと若い世代とコミュニケートできる番組を作って、もう一度素敵な玩具を自分たちの手に取り戻そう。関わるスタッフは全員30歳以下であること!
こうして、シカゴやボストンやトロントなどのキャンパスタウンがある都市、LAやNYなどの若者が集まる街の小さなクラブや劇場から、コメディアンやコメディエンヌ、ヒッピー作家やユーモア作家といった新しい笑いの才能が時代を変えるために集められた。ロック・ミュージシャンの次は彼らの出番だったのだ。チェビー・チェイス、ギャレット・モリス、ギルダ・ラドナー、ラレイン・ニューマン、ジェーン・カーティン、そしてダン・エイクロイドとジョン・ベルーシ。
しかし、課題は山積みだった。番組制作経験者が皆無で手探りの毎日。リハーサルも滅茶苦茶。お偉い方からのプレッシャーも続く中、無情にも時間だけが過ぎ去っていく。これでは全員一緒に失業だな、とマイケルズは半分本気で落ち込んだという……とにかくその時は来た。1975年10月11日、午後11時30分。生放送の新番組『サタデー・ナイト・ライブ』が始まった。
タイトルもクレジットも一切なく、いきなり映し出される部屋。椅子に座っているのは、英語の教師と移民らしき男(ジョン・ベルーシ)。ふざけたレッスン会話が交わされる中、突然、教師が心臓発作を起こして倒れる。それもレッスンの一貫と勘違いして、間を置いてから同じ仕草で倒れるベルーシ。すると、床で身動きしない男たちを横目にチェビー・チェイスが画面に入り込んで来る。そしてカメラに向かって微笑みながらこう告げた。「ライブ・フロム・ニューヨーク! イッツ・サタデー・ナイト!!」
番組を支えたベルーシたちの反骨精神
放送が数回目を迎える頃、大方の予想を遥かに上回る高視聴率を叩き出していた『サタデー・ナイト・ライブ』は、ヒップな人々の話題の中心になっていた。土曜の夜はディスコやレストランにいるよりも、部屋のテレビの前にいることがクールになった。番組自体がパーティなのだから。
キャストもスタッフも週6日掛かりっきりという殺人的なスケジュールの中で、アイデアを練り、リハーサルに没頭し、新しい笑いを生み出していく。3回目の放送では、ベルーシがウッドストックでのジョー・コッカーの絶唱を誇張して歌う十八番芸を披露(これを観たポール・マッカートニーは自分の誕生日に100万円でこの芸を見たいとベルーシを招待した)。さらに番組演出に不満オーラを前面に打ち出す人気コメディアン、ロブ・レイナーに対して生放送中にベルーシが言い放つ。
いいか、レイナー。あんたがハリウッドきってのショービジネスの大スターだか何だか知らないが、俺たちは5年前のあんたと同じなんだよ。チャンスが欲しくてウズウズしているただのヒヨッ子たちさ。俺たちに何をしろって言いたいんだよ!?
番組への賞賛は続いた。ニューズウィークやローリング・ストーン誌の表紙をキャストが飾り、エミー賞では作品賞や脚本賞を受賞。新聞は「これはTV世代による最初の画期的な番組だ。戦後生まれでTVを子守唄として育ち、50年代にこれを愛し、60年代にはこれを嫌った人々が、70年代の今、そのTVを自分たちの手に取り戻そうとしている」と歓喜した。
番組を去っていったベルーシの美学
サムライシリーズ、報道番組解説者、ベートーヴェン、ギリシャ料理店、スタートレック、超人ハルク、マーロン・ブランド、エリザベス・テイラー……大スターになったベルーシが約70回の『サタデー・ナイト・ライブ』で披露したコントやギャグやパロディの数々は、様々な表情を持ちながらもどこか反骨精神に溢れていた(下段の映像)。「チーズバーガー、チーズバーガー」「バット、ノオオオオ(まさかぁ〜)」は流行語となり、一方で雪の墓場で亡きキャストたちを想う「怒りを込めて振り返るな」が醸し出す詩的な悲しさは、今や伝説となっている。
ベルーシの『サタデー・ナイト・ライブ』出演は、契約満期の4シーズンである1979年4月で終了するが、既にその頃は映画やバンド活動に心が向いていた。「同じことを続けるなんてコメディ役者にとっては致命的だ」という美学を持っていたので、何のためらいもなく人気番組から去っていった。そして1978年春に番組に初登場したダン・エイクロイドとのコンビ、ブルース・ブラザースが映画になるのは翌年のことだ。
家族のような何もかも通じ合った仲間たちとの集団演技(アンサンブル・アクト)。それが俺の芝居の原点だな。カメラばかり気にして他の役者との関わりを忘れちまったらそれで終わりよ。一人で舞台に出て行って気の利いたジョークを言うなんて俺にはできやしない。与えられた状況で浮かんだことを即座にやって、みんなを楽しませることができれば、それが俺にとっては最高のことなんだよ。
John Belushi 1949.1.24-1982.3.5
★お知らせ
遺族公認の伝記ドキュメンタリー映画『BELUSHI ベルーシ』が2021年12月17日より公開。
『ゴッドファーザー』のドン・コルレオーネが集団セラピーを受ける。ベルーシのマーロン・ブランドの物真似は驚異的。
当時大人気の『サタデー・ナイト・フィーバー』をパロッた「サムライ・ナイト・フィーバー」。
ピアノの前で苦悩するベートーヴェンが、そのうちレイ・チャールズを弾き始める。
ジョー・コッカーの物真似は、もはや感動の域。音楽愛あってこその芸だ。
SNLのキャストが自分以外全員死んでしまったという設定の「怒りを込めて振り返るな」。皮肉にもベルーシが一番先に逝ってしまった。享年33。
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*参考・引用/「ジョン・ベルーシ・インタビュー・ストーリー」(室矢憲治著/Switch1986年8月号)、DVD『ベスト・オブ・ジョン・ベルーシ』
*このコラムは2015年8月に公開されたものを更新しました。
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