「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the STORY

ジョン・ベルーシとダン・エイクロイド〜旅と悲しみから生まれたブルース・ブラザースの絆

2024.03.04

Pocket
LINEで送る

マンハッタンの秘密基地とブルース・ブラザース


俺たちはそろそろ作られた道化はやめるべきだ。俺たち自身が楽しめてその役になりきれる。そんなことをやろうぜ、ダニー。俺はお前と一緒に何かやりたいんだ。何かこう最高にハッピーなれることを!


1978年4月、NYマンハッタンのロックフェラー・プラザ30番地にあるRCAビルの17階。その日の夜もダン・エイクロイドとジョン・ベルーシは、フロアの片隅に設けらたロッカーを並べて作った自分たちの場所で、75年10月の放映以来、全米で最もヒップな番組となっていた『サタデー・ナイト・ライブ』(以下SNL)の新しいアイデアや台本書きに余念がなかった。人気者になった二人は、家にもろくに帰らずにここで過ごすことが多かった。

脱ぎ捨てられた洋服や膨大な殴り書きのメモ、煙草の吸い殻やオモチャの模型で埋められたその薄汚れた空間は、二人にとっては夢のようなツリーハウス(木の上に作る子供たちの家)だったが、番組のスタッフは怖がって決して足を踏み入れることはなかった。しばらく考えていた二人は同時に叫んだ。「そうだ、ブルース・ブラザースだ!!」

全米横断ブルース・ブラザースの旅


それは『SNL』のファーストシーズンの終わりである1976年の夏に生まれた言葉だった。エイクロイドとベルーシは休暇を利用してアメリカ横断の旅に発つ。高視聴率や高額なCM枠はTV局NBCにとっては最高なことだったが、二人にはそんなことはどうでも良かった。都市部よりも本当のアメリカ=中西部で自分たちが受け入れられているか、どうしても確かめたくなったのだ。労働者階級(ブルーカラー)こそがアメリカの血と汗と涙であることを知っていたから。

運転はスピード狂のエイクロイドが担当。ベルーシが助手席に収まった。二人は『路上』のサル・パラダイスとディーン・モリアーティのようにひたすら車を走らせた。「ブルース・ブラザースの旅」と名付けられ、モーテルやショッピングモールやダイナー、ラジオから聴こえる土地の人々の声や喋り方、素晴らしき音楽。アメリカのスモールタウンを通り過ぎながら、社会の底辺に生きる風景を吸収していった。

そして静かな夜は、お互いの子供時代のことや女の子について喋った。ある時は町の大学に立ち寄り、学生たちが気づいてくれることを期待したが、誰も二人のことを知らなかった。「俺たちはもっと仕事しなきゃならねえ!」

ブルース・ブラザース計画の話し合いの後、ベルーシはすぐにメンバー集めを開始。ベーシストのドナルド・“ダック”・ダンは真夜中の電話で起こされた。「よお! 俺はジョン・ベルーシ。君を金持ちの人気者にするから、NYのリハーサルに来てくれねえか?」。ドナルドは誰かのいたずらだと思って電話を切ったが、またベルが鳴って本人からだと分かったという。

メンバーたちと深めた信頼と絆


集められたメンバーでのリハーサルが終わり、全員が確信した夜、ベルーシの家でパーティが行われた。すると、ベルーシはドナルドとギタリストのスティーヴ・クロッパーを地下室のボロボロのステレオ部屋に誘い、上機嫌のままソウルの名盤を次々と聴かせた。ターンテーブルに乗ったのは『ドック・オブ・ザ・ベイ』。しかし、二人の表情が悲しみに変わっていくのがベルーシには分かった。

「何か悪いことしたかな?」
「いや……俺たちは長いこと聴いてなくてさ。オーティスの事故以来、彼のレコードには一度も針を落とさなかったんだ」
スティーヴが静かに呟いた。一緒に演っていた彼らに失礼なことをした。後悔したベルーシがレコードを止めようとすると、ドナルドが言う。
「いや、そのままでいいよ……いい音じゃないか。最高だよ」

それから三人は古いプレーヤーを囲んで、オーティス・レディングのソウルに身体と心を揺らし続けた。以来『SNL』開始前のウォームアップを兼ねて、みんなでR&Bやブルースを歌い演奏した。ブルース・ブラザースとは、メンバー全員の信頼と絆を象徴する言葉に他ならなかった。

数週間後、エイクロイドとベルーシは、黒い衣装と帽子とサングラスで番組に初登場。78年9月にはLAでのデビューコンサートが大成功し、楽屋には花束や祝電の嵐が吹いた。有名人たちも続々とシャンパンを持って駆けつける中、スタッフやメンバーがはしゃいでいるところに、あのヒュー・ヘフナーのオフィスから電話が入る。

プレイボーイのパーティに二人を招待したいとの打診。だが、バンド自体が招待されていないことを知ると二人は言った。「俺たちはバンドも含めて全員で“ブラザース”なんだ。二人だけじゃ行かねえって、ミスター・ヘフナーにそう伝えてくれ」

快進撃とベルーシの死


ブルース・ブラザースのファースト・アルバムは、79年1月に全米ナンバーワンに到達。同年に『SNL』を揃って去ったエイクロイドとベルーシは、いよいよ映画化のプロジェクトに没頭する。この時、エイクロイドは300ページにも及ぶ脚本を執筆。学生時代に取得した犯罪学や心理学、警察の知識、アンターグラウンドな連中との付き合いなどがフルに発揮されることになった。

映画『ブルース・ブラザース』は1980年に公開されると大ヒットを記録。無表情なユーモアや破壊的な冒険は、それまでのコメディになかった革命だった。レイ・チャールズもジェームス・ブラウンもアレサ・フランクリンもこの映画で若いファン層をつかんで息を吹き返した。

そして1982年3月5日。ハリウッドのホテルでベルーシ逝く。9年前の出逢い以来、実の兄弟のようであり、ビジネスのパートナーシップであり、親友でもある。あらゆるものを一緒に追求していた二人の素敵な野蛮人。ダン・エイクロイドは言った。

ブルース・ブラザースが終わった後、ジョンはもう別のことをやりたがっていたんだ。今度は真面目な役でみんなをあっと言わせたいと。あいつはもがいていた。一方で次々とやってくる連中に無愛想にできなかった。本当にみんなを喜ばせるのが大好きな心優しい奴だったんだ。あのでっかい笑顔とでっかいエネルギーの下には、いつも感じやすく傷つきやすい彼がいた。ジョンにとって人生は大きなごちそうだったんだよ。


『サタデー・ナイト・ライブ』で「Soul Man」を披露したブルース・ブラザース


映画『ブルース・ブラザース』の伝説のオープニング


●この商品の購入はこちらから(アナログ盤)


●この商品の購入はこちらから

●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから

*参考・引用/「ジョン・ベルーシ・インタビュー・ストーリー」(室矢憲治著/Switch1986年8月号)、「ザ・ベスト・オブ・フレンズ」(Switch1986年8月号)
*このコラムは2015年8月に公開されたものを更新しました。

★お知らせ
遺族公認の伝記ドキュメンタリー映画『BELUSHI ベルーシ』が2021年12月17日より公開。

(こちらもお読みください)
ブルース・ブラザース〜33歳で逝った伝説のジョン・ベルーシ

ジョン・ベルーシ〜永遠のヒップスターと伝説の『サタデー・ナイト・ライブ』

【執筆者の紹介】
■中野充浩のプロフィール
https://www.wildflowers.jp/profile/
http://www.tapthepop.net/author/nakano
■仕事の依頼・相談、取材・出演に関するお問い合わせ
https://www.wildflowers.jp/contact/

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the STORY]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ