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蓄音機を発明したエジソンにまでたどり着いた細野晴臣の音楽を探る旅

2024.07.08

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幼い頃から、晴臣少年は家にある重いSPレコードを選んで、自分で大きな蓄音機を回して聴くのが大好きだった。

蓄音機は母方の祖父にあたる中谷孝男のものだったが、晴臣少年が生まれる前から家に置いてあった。レコードをかけて音楽が流れてくると、身体が自然に動き出したので、毎日2時間でも3時間でもレコードを聴いていた。

アメリカ映画やドイツ映画のレコードは映画好きの母が揃えたもでので、クラシックやジャズのレコードは祖父の所蔵品だった。

ダンディーな紳士だった中谷は、いつも臙脂色の蝶ネクタイとステッキで出かけていった。仕事は日本でも数少ないピアノの調律師で、ピアニストのマネージメントも行っていた。1951年からは国立音楽大学で教壇に立って教えるようになり、「ピアノの技術と歴史」という本も出している。

ちなみに父方の祖父だった細野正文は1912年に沈没した豪華客船タイタニックに乗っていて、たった1人生還した日本人だった。

アメリカの映画会社に務める叔母さんが家の斜め向かいに越してきたのは、晴臣少年が幼稚園に通っていた頃だ。叔母さんの家にはシャンソンやハリウッドの映画音楽など、新しくてモダンなレコードがたくさんあった。

晴臣少年は叔母さんが仕事で出かけているときも、家に遊びに行ってたくさんのレコードを聴いた。そうやってさまざまな音楽に接することで、それらのエッセンスをを自然に取り入れていたのである。


1973年の2月、埼玉県の狭山にあった米軍ハウスで、細野晴臣は初のソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』を完成させている。

それは当時としては画期的な、自宅録音という方法で制作されたものだった。オープニングを飾った弾き語りの「ろっかばいまいべいびい」は、古き良き時代へのノスタルジックな郷愁を漂わせる曲だ。

細野はレコーディングに参加したメンバーの鈴木茂・林立夫・松任谷正隆との4人で、そのままキャラメル・ママというバンドを始めることにした。

レコーディングのセッションバンドとして数多くの作品に参加したキャラメル・ママは、日本の音楽シーンに大きな変革をもたらしていく。

1973年の9月21日、”はっぴいえんど解散コンサート”と銘打った『CITY―LAST TIME AROUND(ラスト・タイム・アラウンド)』が文京公会堂で開かれた。

これは、はっぴいえんどにとっては最後のステージだったが、バンドとしてのキャラメル・ママが行った最初のステージでもあった。


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ヴォーカリストがいなかったキャラメル・ママは、演奏能力が高く、てアレンジやプロデュースが出来たので、スタジオの演奏家集団として活躍していく。

彼らが目指していたのはアメリカのアラバマ州にあるマッスルショールズ・サウンドのように、スタジオ・ワークをまとまったリズム・セクションと、気の合うミュージシャンたちで作り上げていくことだった。

吉田美奈子『扉の冬』、南佳孝『摩天楼のヒロイン』、荒井由実『ひこうき雲』、あがた森魚『噫無情』、雪村いづみ『スーパー・ジェネレイション』ほか、後世に語り継がれるアルバムの数々のほかに、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」、南沙織「夏の感情」といったアイドル・ポップスのヒット曲なども手掛けた。

細野とキャラメル・ママは、短期間に次々と新しい時代の音楽を誕生させることで、最新の音楽シーンを裏方として支えていった。しかし、プレーヤーとして演奏の快感に向けて突っ走っていったキャラメル・ママ時代の細野は、精神面で不安定な状態が続いていたという。

ハリウッドのノスタルジックな記憶もピークに来てて、かなり深いところまで入り込んだ。ちょうど、昔のSP盤を大量に家で発見したのもこの頃なんだ。どんどん遡って音楽を聞いていくうちに、ぼくの生まれる前の音楽にまで行っちゃって、ついには蓄音機を発明したエジソンのところまでたどり着いちゃった。


あまりにも深く自分のルーツに入り込んで、古き良き時代のアメリカ音楽を聴きこんでしまったため、「このままだと帰れなくなっちゃうんじゃないか、怖いね」と、一緒に研究していた鈴木茂と話したこともあったそうだ。

それは母方の祖父が好きだった音楽をレコードで辿るだけでなく、父方の祖父が聴いた音楽の幻を追う旅だったかもしれない。

さかのぼって音楽を聞いていくことが、自分の音楽のルーツの確認だったらいいんだけど、ぼくらのはそんな理性的な感じじゃなくて、ひたすら溺れ込んでいたから、ちょうど夢を見てて、もう覚めないんじゃないかっていう感じの怖れを、だんだん自覚してきたんだ。


そんな怖れを感じていたときに、新鮮でリアルな音楽として耳に飛び込んできたのが、スライ・アンド・ストーンのアルバム『フレッシュ』だったという。これを聴いて細野は一発で意識が戻り、自分はミュージシャンなのだという自覚が鮮明になった。

1974年の7月に27歳の誕生日を迎えた細野は、キャラメル・ママを発展させてサウンド・プロデュース集団として、ティン・パン・アレーを名乗るようになる。

それで、またソロ・アルバムを作らなきゃいけないって思いたった。カッコいいことやらなくていけないって。それでアメリカの最新サウンドみたいなカッコいいアルバムを作ろうと思って、レコーディングを始めたのね。エジソンまでさかのぼってしまった体験が何を意味してるのかっていうことを考えずに、突然、反動で最新のものやろうとしちゃったの。


ティン・パン・アレーの活動と平行して11月から始まったソロ・アルバムのレコーディングは、途中で難航することにもなったが、翌年には『トロピカル・ダンディー』を完成させている。

それはアメリカを通り抜けてカリブ海沿岸諸国のエキゾチック路線とつながり、やがてトロピカル3部作の『泰安洋行』と『はらいそ』を経て、1978年のYMO誕生にまで発展していくのである。


(注)本コラムは 2015年6月13日に公開されたものの改訂版です。文中の細野晴臣の言葉は、前田 祥丈著「音楽王~細野晴臣物語」(シンコーミュージック刊)からの引用です。


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