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ジャズ・フュージョン路線からラテンロックに戻って返り咲いたカルロス・サンタナ

2017.04.01

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1975年、カルロス・サンタナはセールス不振に頭を悩ませていた。

1stアルバム『サンタナ』でデビューしたのは1969年。
それがいきなり全米4位となると、続く2ndアルバム『天の守護神』、3rdアルバム『サンタナⅢ』が立て続けに全米チャート1位を獲得、サンタナはロックシーンにラテンという新たな風を吹かせるとともに、連続1位という快挙をいとも簡単に成し遂げてみせた。

わずか数年で富と名声を獲得したサンタナだが、その心は満たされるどころか、むしろ不安を募らせた。
成功から生まれるプレッシャーや、お金によって自分を見失わないかなど、理由はいくつか考えられるが、ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンといった、同時代のスターたちが立て続けに亡くなったこともその一因だったようだ。
このままロックの世界に身を置いていたら、彼らと同じような道を辿ってしまうのではないか、そんな恐怖を感じていたという。
そんなカルロス・サンタナの心に平穏をもたらしたのが、ヒンドゥー教の導師、シュリ・チンモイの教えだった。

変化の予兆は4枚目のアルバム『キャラヴァンサライ』から始まった。
それまでの情熱的なロックサウンドは健在するも、スピリチュアルな歌詞やサウンドが随所に散りばめられ、それまでの3作品とは違う新たなサンタナの音楽がそこにあった。



この頃に親交の深かったマイルス・デイヴィスらの影響もあり、サンタナの音楽はジャズ、フュージョンの世界へと近づいていく。
それはロックの世界から距離を取ろうとしているようでもあった。
1973年には、マイルス・グループの元ギタリストで、サンタナと同じくチンモイの思想に傾倒していたジョン・マクラフリンとの共作『魂の兄弟たち』をリリースし、1974年にはマイルスと並ぶジャズ界の巨人、ジョン・コルトレーンの未亡人、アリス・コルトレーンとの共作『啓示』を発表する。



こうしたサンタナの路線変更についてくる熱心なファンはいたし、ジャズやフュージョンのファンを新たに獲得もしたが、その一方で多くのロック・ファンは戸惑いを感じ、あるいは失望していた。
『キャラヴァンサライ』以降、アルバムは徐々に売上を落としていき、サンタナが27歳のときにリリースした6枚目のアルバム『不死蝶』は、過去最低の20位という結果に終わる。

かつて抱えていた不安からはある程度解放された一方で、今度は自分の音楽が以前ほど多くの人たちに受け入れられていないことに、頭を悩ませるのだった。

そんなサンタナにラテンロックへ戻るべきだと言ったのは、1975年にマネージメントに就いたビル・グレアムだった。
ビルはかつて伝説のライヴハウス、フィルモアを経営していたプロモーターで、まだデビュー前でまったくの無名だったサンタナをウッドストックに送り込んだ人物である。
詳しくはこちらのコラムへ

「きみは民族的で、汗くさくて、ストリートのスターという感じだ。
そこがみんな好きだし、きみもそうしてきただろ。それを続けるべきじゃないか」


ラテンロックを待ち望んでいるのはビルだけではなかった。
サンタナはそのことに、アース・ウィンド・アンド・ファイアーのステージに熱狂する観客を見て気づいたという。

「アース・ウィンド・アンド・ファイアーとのツアー中に気づいたんだ。
沢山の人たちが未だにバンドとしてのサンタナを待っているってことに」


翌1976年にリリースされた新作『アミーゴス』は、それまでの路線から一転して情熱的なラテンロックのサウンドを響かせた。
それも単なる原点回帰ではなく、サルサやディスコなども取り入れた新しいラテンロックだ。
前作の全米チャート20位から10位にまで上昇し、ローリングストーン誌は「サンタナ・カムズ・ホーム」と題してサンタナを取り上げた。

自分のやりたいことと、自分に求められていること、その2つの狭間に立たされたサンタナは、ファンの期待に応える道を選ぶのだった。




サンタナ『アミーゴス』
Columbia

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