1991年11月3日、輝かしい経歴を持つミュージシャンたちが、1人の男を追悼するために多忙な時間を割いてサンフランシスコに集まった。
CSN&Y、グレイトフル・デッド、ジョン・フォガティ、サンタナ、ジャクソン・ブラウン、アーロン・ネヴィル、ジョーン・バエズ、クリス・クリストファーソン…。
男の名はビル・グレアム、伝説のライブハウス「フィルモア・オーディトリアム」を1965年にサンフランシスコで起ち上げて、西海岸のロックの拠点としてサイケデリック・ブームの発信地となって時代をリードした人物だ。
1968年には場所の移転にともなって「フィルモア・ウェスト」と改称し、新装オープンした日にはドアーズがライブを行った。
東海岸のニューヨークに「フィルモア・イースト」をオープンしたのは同じ年の夏だったが、それからの3年間で当時のロック界における歴史的なコンサートのいくつかが行なわれている。音響効果の良い会場だったおかげで数多の名演がレコーディングされ、ロック黄金時代のジミ・ヘンドリックスやオールマン・ブラザーズ・バンドなどがライブ・アルバムとしてこの世に残された。
しかしロックが産業として成り立つ時代が訪れると、ビッグになったアーテイストや関係者たちは、週に何度もライブをやるよりも大観衆をアリーナやスタジアムに集めるほうが、さらに大きなビジネスになるとわかってその方向に突き進んでいった。
そんな状況に幻滅したビルは、経営面でも営業面でも問題がなかったのに、1971年の夏にフィルモア・イーストとフィルモア・ウエストを、相次いで閉鎖してしまった。
その後はローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンのツアーでプロモーター(イベント興行主)を務め、ザ・バンドの解散コンサートとなった「ラスト・ワルツ」、さらにはライブ・エイドを手がけて成功をおさめていく。
(1985年のライヴエイド)
(クイーン~ロック史に輝く起死回生のパフォーマンス)
生きながらロック界の伝説となったビルが、乗っていたヘリコプターの事故で帰らぬ人となったのは1991年10月25日だった。
伝説のプロモーターが突如として亡くなったニュースは世界を駆け巡り、葬儀には関係者やミュージシャンをはじめとして多くの参列者が集まった。
ビルのもとで働いていたスタッフたちは何か出来ることはないかと考えて、偉大なるプロモーターを追悼するコンサートを企画する。
事故から8日後の日曜日、サンフランシスコのゴールデン・ゲイトパークでは、「ラフター・ラヴ&ミュージック(笑いと愛と音楽と)」と題されたフリー・コンサートが開催された。
急遽決まったイベントだったが、会場には50万人近い人たちが集まった。
「おはよう。フィルモア・オーディトリアムにようこそ。フィルモア・イーストとフィルモア・ウェストにようこそ。(中略)ゴールデン・ゲイトパークにようこそ。ビルの店にようこそ。今日はここがダンス・ホールのつもりで楽しんでほしい」
コンサートが始まると次から次へとミュージシャンが登場して、ビルのために、ビルの店を楽しむために演奏した。
サンタナ「I Love you Much Too Much」
CSN&Y「Ohio」
グレイトフル・デッド&ニール・ヤング「Forever Young」
8時間にも及ぶショーが終わりを迎えると、ビルの元でずっと働いてきたスタッフの1人、ジェリー・ポンペリは締めの言葉で「ビル!最高のショーだったよ」と空に呼びかけた。
残されたスタッフはビルが最後に望んでいたフィルモア復活の夢を実現するために動き、1994年に「ザ・フィルモア」をオープンさせる。
ビルにとってフィルモアは特別な場所だった。
トイレで小便をしていると、ふたりの男があとから入ってきて、わたしの両わきに陣取った。
『なあ、今夜は誰が出てるんだっけ?』
『おれも知らない。でもべつにかまわないだろ?だってここはフィルモアなんだぜ』
あれは、わたしが受けた最大の賛辞だったと思う。
(『ビル・グレアム ロックを創った男』より)
想いを受け継いだ人たちがいるかぎり、ビルの店はなくならない。
そして今日もビルの店に、人々が集まってくる。
【フィルモアにまつわる物語】
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