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オジー・オズボーン27歳〜酒に溺れてゆく日々、ブラック・サバスからの脱退、危篤状態の父が口にした最期の言葉

2024.12.03

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メタル界のレジェント的存在として、絶大な人気を誇るオジー・オズボーン。幾度もの変遷を経ながら、約50年にわたって活動した、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルと並ぶ“三大ハードロックバンド”に数えられるブラック・サバスの創設メンバー(在籍期1968年-1977年、1978年-1979年、1985年、1997年-2017年)としても知られる男である。

ブラック・サバスは、2017年に活動を終えたことを正式に発表している。オジーはブラック・サバスとしての最後のツアーについて、『フィラデルフィア・インクワイアラー』紙に次のように語っている。

「素晴らしい時間を過ごせたわけではなかったんだ。俺は9年か10年をブラック・サバスに費やしたわけだけど、20年近くバンドからは離れていたわけだからね。彼らといる時の俺は単なるシンガーでしかないんだ。自分1人であれば、やりたいことをできるわけでね。オジーでいると、彼らとは馬が合わなくてね。分からないんだけどさ、一体他に誰になればいいんだっていうね」



オジーが26歳の時に発表したブラック・サバスの6thアルバム『Sabotage』(1975年)まで、バンドは全英・全米ともにアルバムチャート上位にランクインしている。特に5thアルバム『Sabbath Bloody Sabbath(血まみれの安息日)』(1973年)までの作品は、いずれも全米で100万枚以上の売り上げを記録。

しかし、オジーが27歳となった1976年頃から、新たな音楽の波“パンク/ニュー・ウェイヴ”のムーブメントが到来。それまでのロック・ミュージックは徐々に勢いを失っていく。ブラック・サバスも例外ではなく、当時、方向性の相違から、メンバー間に不協和音が漂い始める。さらにオジーは、重度のアルコール問題を抱えていた。

「バンド内でもめ事が起こっている一方で、俺達は7作目となるアルバムの制作に取りかかっていた。マイアミのスタジオを押さえ、機材もスタッフも全部イギリスからアメリカに持ち込んでやろうとしていた。新作のタイトルは“Technical Ecstasy”に決まった。この頃になると、俺達のアルバムの制作費用は馬鹿馬鹿しいほどの金額になっていたよ」


音楽シーンの過渡期も重なり、この頃からブラック・サバスのアルバム売り上げは下降線を辿っていく。レコード会社も徐々に予算を渋りはじめ、さらにはアメリカの国税庁から、バンドに対して100万ドル単位の税金の督促状が届いた。

「法的闘争の費用も払えなくなり、マネージャーもいなくなったんだ。何よりも酷かったのは、俺達メンバーが自分達の方向性を見失ってしまっていたことだ。音楽的な実験をしていたというよりも、自分達自身が何者なのか? すっかり分からなくなっていたと言うべきだろう。

スタジオの中では、メンバーが『フォリナーみたいなサウンドにしよう』とか『クイーンのようなアレンジで』なんてことばかり言うようになった。実におかしな話だ。かつて俺達が影響を与えたバンドから、何かインスピレーションを得ようとしてるわけなんだから」


オジーは酒とドラッグに溺れてしまい、周囲に対して酷いことを口にしては、トラブルばかりを起こすようにもなった。『Technical Ecstasy』のレコーディング中に、身体も精神もボロボロの状態となり、イギリスに戻った直後に、自ら精神病院に入院することを希望した。

「退院後も俺は家で酒を呑み続け、コカインをやり、マリファナを吸い、もう正気を失いかけていた。もう限界だったんだよ。これ以上バンドの中で歌っていても何の意味もないように思えていたんだ。曲作りよりも弁護士と会っている時間の方が長いんだぜ。しかも、6年間ほとんど休み無しで世界中をツアーで廻って、疲れ果てていたんだ。さらに、理不尽な税金の請求で俺達は一文無しになっていた」


1977年。オジーはバンドを脱退。後任としてバンドが見つけてきたのは、同郷バーミンガム出身のデイヴ・ウォーカーという男だった。フリートウッド・マックやサヴォイ・ブラウンに在籍したことのあるヴォーカリストだった。ところが、デイヴとメンバーは上手くいかず、結局、数週間後にはオジーが呼び戻される形となった。

「戻った場所(バンド)は表面的には以前と変わらないように見えたけど、明らかに何かが違っていた。あの時、心から取り組んでいたメンバーは一人もいなかったと思う」


そんなある日、オジーのもとに一本の電話が入る。受話器の向こうの相手は、実姉の夫ノーマンからだった。電話の内容は、全身を癌に侵されていた父親が危篤状態にあるという報せだった。

「お父さんに会いに行った方がいい! もしかしたら明日までもたないかもしれない!」


早期退職をしたばかりの64歳の父親は、病院のベットに横たわり、息子が来るのを待っていた。

「神様は親父がなくなる前に、俺と話す時間を与えてくれたんだ。親父はそれまで俺に一度も言ったことがなかったことを口にしたんだ。“タバコに気をつけろよ”“酒の問題をなんとかしろ”“睡眠薬を飲むのも止めるんだ”」


オジーは小さくうなずきながら、父親の手を握りしめた。次の日、容態がさらに悪化し、父親の身体には生命維持の為の管がつながれた。父親は彼に最期の願いを告げた。

「このチューブを抜いてくれ。痛いんだ。」


1978年1月某日、父親は静かに息を引き取った。その年、ブラック・サバスは8thアルバム『Never Say Die!』を発表するも、メディアからは酷評され、売り上げも芳しくなかった。

結局、アルコール問題が改善されなかったオジーは、再度バンドを去ることとなった。だが、オジーの復活は、ここから始まるのだった。


<引用元・参考文献『I AM OZZY オジー・オズボーン自伝』オジー・オズボーン(著)クリス・エアーズ(著)迫田はつみ(翻訳)/ シンコーミュージック・エンタテイメント>


NEVER SAY DIE!


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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html

【公演スケジュール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12660299410.html

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