メタル界のレジェント的存在として、絶大な人気を誇るオジー・オズボーン。幾度もの変遷を経ながら、約50年近くにわたって活動を続けた、英国を代表するハードロックバンド、ブラック・サバスの創設メンバー(在籍期1968年-1977年、1978年-1979年、1985年、1997年-2017年)としても知られる男である。
「俺は30年もの間、酒と麻薬という致命的な組み合わせを摂取し続けてきた。自殺しようとして大量に薬を飲んだこともある。性感染症にかかったことも、四輪バイクの事故で命を落としかけたこともある。悪事を働いたこともある。いつも“闇”に引き寄せられていく。それが俺だった。
だけど俺は悪魔ではない。俺はただのジョン・オズボーン。バーミンガム出身の労働者階級の少年に過ぎないんだ」
1948年12月3日、オジーは、イギリスのバーミンガムで6人兄弟の4番目として生まれた。両親は、ジョン・マイケル・オズボーンと名付けた。家庭は典型的な労働者階級だったため、生活は裕福ではなかった。3人の姉、2人の弟と共に狭い家で身を寄せ合いながら暮らした。
「俺が幼かった頃、親父は工具や工作機械専門の技師をやっていて、工場の夜間シフトで働いていた。当時は屋内にトイレがなくて、ベッドの足元に小便用のバケツが置いてあったような暮らしだった。長屋のようなテラスハウスで両隣と繋がって建てられたボロ家だったんだ」
父親は子供達にいつも戦争経験の話をした。それは1940年代の初頭、ドイツ軍がイギリスに対して空爆を繰り返していた日々の話だった。高性能爆薬やパラシュート付き機雷を雨のように降らせ、当時は燃え上がる炎の明るさで、夜でも新聞が読めたという。
「俺が育った戦後の生活も楽なものじゃなかった。夜勤を終えた親父が朝帰宅すると、今度はおふくろが工場に働きに出る。そんな毎日が来る日も来る日も続くのさ。日曜日が来てもオスボーン家の人間は誰も教会に行くことはなかった」
また、オジーにとって、酒は幼い頃から“身近なもの”だった。父親は日頃からマッカーソンスタウトのビールを好んで飲んでいた。日曜日には父親に連れられてパブに行くこともあった。
「俺はパブの外で遊んでいて、ドア越しに親父の大きな歌声を聴いては、“パパが飲んでるあのレモネードはきっと凄いもの何だろうなぁ”と思っていたよ(笑)。ビールって一体どういうものなんだ?ってだんだん興味を持ち始めて、18歳になる頃には、5秒で1パイントを流し込めるようになっていたよ(笑)」
オズボーン家で酒を飲んで歌いたくなるのは、父親だけではなかった。母や姉たちもそうだったという。年頃だった長女のジーンが、チャック・ベリーやエルヴィス・プレスリーのレコードを買って帰ると、みんなで曲を覚えて、土曜日の夜に家族ショーのようなことが行われた。
「俺が人前で初めて歌ったのも家族の前だったよ。今でも憶えてるよ。クリフ・リチャードの“Living Doll”を歌った。あの頃は将来自分が歌で稼ぐようになるなんて夢にも思ってなかったよ。自分が金を稼げるとしたら、地元の他の人達と同じように工場で働くか、銀行強盗でもするしかないと思っていた」
ディスレクシア(読み書き障害)とADHD(注意力欠損運動過剰障害)を抱えていたともいわれるオジーは、学校にもほとんど行くことはなく、酒代を得るために盗みを繰り返すような少年時代を送ることとなる。
「近所に住んでいた悪友とリンゴ園のリンゴを盗むところから始めた。最初は売ったりはしなかったよ。貧しい暮らしだったから、いつも腹が減っていたんだ。リンゴの次はパーキングメーターの小銭をくすねるようになり、その次は万引きをするようになった。家には6人も子供がいるのに金はほとんどない。こういう絶望的な状況に置かれたら、次の食事にありつくために人はなんだってやるものさ」
オジーは15歳で学校をドロップアウトした。人生の選択肢は限られていた。新聞の求人広告に目を通して、配管工事の仕事を見つけた。
「少なくともこれなら手に職がつけられると思ったんだ。あれはちょうど冬の季節だったよ。寒さでパイプが破裂するせいで、配管工は真冬に忙しくなるんだ。零下5度の凍てつくような寒さに耐えながら、マンホールの中で体を曲げて仕事をするんだ。一週間も持たなかったよ」
その後も、車の部品製造工場、食肉処理場など低賃金の仕事を渡り歩いていたが、程なくして強盗容疑で投獄される。
「三つ子の魂、百までってことさ!」
学校を中退する前に、オジーはバンドの真似事をやっていた。投獄中、音楽が好きだった自分を振り返り、強盗犯としてではなく、ミュージシャンとして生きていくことをかたく決意。出所後、地元新聞紙にバンドメンバー募集の広告を出して、“アース”というバンドを結成する。
「あの頃は色んな音楽やファッションに影響を受けたよ。テディボーイ、オールディーズ、ある時期はピッタリしたモッズスーツに身を包み、その次には革ジャンに鋲付きベルトのロッカーズファッションをしていた。そして決定的だったのがビートルズだった。
ある日、なけなしの給料を握りしめて、彼らの2ndアルバム“With the Beatles”を買ったんだ。家に戻ってレコードに針を落とした瞬間に全てが変わったよ。彼らは俺をバーミンガムの貧しい暮らしから連れ出し、幻想の世界へと連れて行ってくれたんだ。アルバムに入っていた14曲を何度も何度も聴き続けたよ」
やがてオジーは、バーミンガムのパブやクラブで、バンドを率いて歌い始める。その後、1969年(当時21歳)にバンド名を改名しブラック・サバスが誕生した。
<引用元・参考文献『I AM OZZY オジー・オズボーン自伝』オジー・オズボーン(著)クリス・エアーズ(著)迫田はつみ(翻訳)/ シンコーミュージック・エンタテイメント>
Black Sabbath
執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
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