1965年3月のある夜、ニコはローリング・ストーンズと出会う。ストーンズの初代マネージャーとして知られるアンドリュー・ルーグ・オールダムが「スター候補の女の子を探している」という話の流れから、ニコが紹介されることとなった。
ニコは当時、モデルや女優以外の新しいキャリアを必要としていた。歌手という肩書きをいかにして手に入れるか? オールダムが選んだ楽曲は、カナダ人作曲家のゴードン・ライトフットが書いた「I’m Not Sayin」だった。
オールダムがプロデュースを担当したそのレコーディングでは、ブライアン・ジョーンズがギターを弾き、“売れ線”のポップサウンドが制作された。しかし、27歳を迎えた年にリリースされたニコの1stシングルは、商業的にも内容的にも満足いくものではなかった。
この頃、ボブ・ディランの紹介で、ニコはアンディ・ウォーホル(当時36歳)に出会う。
「当時アンディのアシスタントだったジェラード・マランガが私に話してくれたわ。アンディがニューヨークの持っているスタジオ(ファクトリー)について。私が次にニューヨークに行った時には、いつでも歓迎するって言ってくれた。アンディは私がフェリーニ監督の映画『甘い生活』に出演したことや、ローリング・ストーンズのメンバーと仕事をしたことに興味を持っていたの」
その年の11月、ニコはモデルの仕事でニューヨークへと渡った。同じタイミングでニューヨークにいたブライアン・ジョーンズが、彼女をファクトリーに連れて行くことになった。
西47丁目にあったその倉庫のような建物の中は、銀色のホイルに覆われており、トレンディな人間が常に出入りしていた。アンディ・ウォーホルはその建物をこんな言葉で表現した。
「銀色はすべてのものを消してしまう。私たちはそこで色んなことし、あるいは何もしていない」
ニコはリリースしたばかりの1stシングル「I’m Not Sayin」を土産として、ウォーホルに手渡した。そのレコードがオーディション代わりとなり、ニコは名声へのパスポートを手に入れることとなる。
ニコは直ちにスクリーンテストを受けた。明るくした倉庫の隅にある椅子に座ると、当時アンディのアシスタントだったジェラード・マランガ(詩人・写真家・フィルムメーカー)が3分間カメラを向ける。
その垢抜けた容姿と雰囲気に魅了されたウォーホルは、数日後に自身が主宰する“ファクトリー”の実験映画『ザ・クローゼット』(1966年)にニコを出演させた。
銀色のホイルにくるまれたダクト、そしてドラッグの煙の下で、ニコはファクトリーに出入りする面々を紹介された。当時ウォーホルとは特別な関係だった映画監督ポール・モリセイは、ニコとの出会いのことを鮮明に憶えているという。
「僕は当時、アンディが手掛けていたバンドが抱えていた問題点を指摘していたんだ。彼らにはカリスマ的なシンガーが必要だと思っていた。そしてその解決方法が、ある日ファクトリーに現れたんだ。ニコは“世界で一番美しい女”だった」
ウォーホルは自らがプロデュースしていたルー・リード率いるヴェルヴェット・アンダーグラウンドにニコを参加させ、1967年3月に1stアルバム『The Velvet Underground and Nico』をリリースする。しかし、ルー・リードはニコに対して反感を露わにした。
「ニコとバンドは切り離したままにしておこうぜ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコだ。名前が出る時でも、ポスターにおける位置付けはニコを二列目にするようにな!」
いわばウォーホルに“ゴリ押し”された形のバンドメンバーは、ニコを受け入れることを拒み、2作目以降は作品に参加することはなかった。
そんな周りの空気にはおかまいなしに、ウォーホルは彼女を女神のように祭り上げようと“新たな一手”を打つ。
同年10月、ボブ・ディラン、ジャクソン・ブラウン等に曲提供を依頼し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーも参加させたニコの1stソロアルバム『Chelsea Girl』を世に送り出すのだ。
<引用元・参考文献『ニコ―伝説の歌姫』リチャード ウィッツ(著)浅尾敦則(翻訳)河出書房新社>


Chelsea Girl
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