1970年、ウェストハリウッドのクラブ、トルバドゥールのバーには、成功を夢見る若きミュージシャンたちが毎晩たむろしていた。
その中にグレン・フライとドン・ヘンリーもいた。グレンはJ・D・サウザーとのデュオ、ロングブランチ・ペニーウィッスルで、ドンはテキサス出身のバンド、シャイロの一員として、同じエイモス・レコードからアルバムを発表していたが、どちらもまったく売れなかった。
2人はレーベルのオフィスですれ違い、トルバドゥールに入り浸っていたので、顔見知りではあったが、ドンはLAに知り合いが少なく、とてもシャイな性格ゆえ、一人で飲んでいることが多く、とっつきにくい奴とも思われていた。
それに対し、グレンは外向的で、自信に溢れ、女の子にもてた。実のところ、ドンはグレンの持つカリスマに感心していたという。
ある晩、2人はテーブルを共にして、エイモス・レコードとの契約やバンドの状態などへの不満をお互いに打ち明けて親しくなった。
リンダ・ロンシュタットのバンドのギタリストの仕事にありつき、残りのメンバーを探していたグレンは、歌えるドラマーとして参加しないかとドンを誘う。その返事は「もちろん」だった。
「グレンには計画があって、構想があったんだ」とドンは振り返る。
グレンは友人のジャクソン・ブラウンにアサイラム・レコードを立ち上げたデイヴィッド・ゲフィンを紹介してもらい、ソロでなくバンドなら契約すると言質をとっていた。彼らはリンダのツアーを通して友情を深めながら、イーグルスとなるバンドの構想を語り合い、結成に向けて動き出す。
残りのメンバーに、バーニー・レドンとランディ・マイズナーという自分たちよりもキャリアが豊富な実力者2人を加えたので、72年のデビュー・アルバム『Eagles』こそ4人が民主的に曲を提供し、リードを分け合って歌い、音楽面で彼らに頼るところは大きかったが、バンドの舵をとっているのがグレンなのは明らかだった。
そして73年の2作目『Desperado』からグレンとドンがコンビを組んで作詞作曲の殆どを手がけ、リード・ヴォーカルも大半を担当するようになる。スタンダードとなる表題曲「Desperado」を歌ったドンは大きな存在感を発揮し始めた。
グレンは賢明にも自分のエゴをひっこめ、ドンの艶っぽいハスキーな歌声こそが、イーグルスを大成功に導くと判断した。自分がリードを歌う曲が減ることも甘受したのだ。
その方針は正しく、「Best of My Love」、「One Of These Nights」、そして「Hotel California」と、ドンの歌うヒット曲が彼らを70年代で最も成功したロック・バンドにする。
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*このコラムは2014年7月12日に初回公開されました。