1957年秋に公開されたエルヴィス・プレスリーが主演する映画『監獄ロック』は、彼が出演した31本の作品の中でも爆発的な人気を博したことや、生き生きとした歌と踊りの場面があったことから、傑作だという声が多い。 デビュー前のエルヴィスを思わせる若者が、主人公となって物語は展開していく。
テネシー州メンフィスにある映画館の案内係として、週給12.75ドルという低賃金で働く若者のヴィンスは、いつの日か映画スターになる夢を見ていたが、酒場でのトラブルで誤って相手を殴り殺してしまう。
それによって服役していたヴィンスが刑務所内からテレビ中継された番組で、歌とパフォーマンスを披露して反響を呼んで注目を集める。そして出所後にはロック歌手になって、映画にも進出していくという内容だ。
このときに映画の内容と合わせて刑務所内のパーティソング「監獄ロック」を書いたのは、エルヴィスがメジャーのRCAに移籍したときに第1弾シングルに選んだ「ハウンド・ドッグ」を書いたソングライター、ジェリー・リーバー(作詞)=マイク・ストーラー(作曲)のふたりである。
今なお世界中で歌い継がれている「スタンド・バイ・ミー」などの名曲を生み出すことになるこのコンビは、まだ20代の半ばだったが、プロデューサーとしてもソングライターとしても脂が乗っていた。そして先見性のあるポップな楽曲を、いよいよ世に送り出し始めた時期にあった。
彼らは3年前にR&Bシンガーのビッグ・ママ・ソーントンのために提供した「ハウンド・ドッグ」を、エルヴィスが新しい解釈と歌唱法によって圧倒的な生命力を吹き込んで、世界的な大ヒットにしてくれたことに心から感謝していた。
したがって映画『監獄ロック』のために曲作りを依頼されると、喜んで引き受けてシナリオを読み込んで、ストーリーや各場面にふさわしい楽曲を書いた。
ハリウッドで行われたレコーディングにもリーバー=ストーラーは立ち会って、いくつかのアイデアを出すなど真剣に取り組んだ。
その結果、エルヴィスが囚人服を着て踊りながら歌う主題歌の「監獄ロック」は、ロックンロールが内包している若さと反発のエネルギーが凝縮された作品になったのである。
ワイルドさを追求したバンドのサウンドもはまって、「監獄ロック」は世界の音楽史に残る傑作となった。
さらにはミュージカル映画の伝統に基づいて、振付師のアレックス・ロメロが考えた「監獄ロック」のダンスシーンも、現場でエルヴィスが「ちょっと違う」と言ったことから、ロックンロール初のミュージカルシーンとして、映画史に記録されることになった。
ロメロは現場で「ハウンド・ドッグ」と「冷たくしないで」のレコードをかけて、エルヴィスにステージでの自然なアクションを再現してもらった。
その翌日、ダンサーの全員がエルヴィスであるかのような歩き方や踊りを考え出してきたロメロは、それをうまく織り込んでフィルムに焼き付けた。
もちろん、もっとも素晴らしい動きを見せたのはエルヴィスだった。
「監獄ロック」は映画が公開される前から、レコードが6週間も全米チャートの1位になったほか、白人向けのカントリーチャートと、黒人向けのR&Bチャートでも1位となって、初めてトリプルクラウンを達成した。イギリスでも初登場で全英チャート1位になったが、これもまた史上初の快挙であった。
しかしながら日本ではどういうわけかエルヴィスのヒット曲のひとつという扱いでしかなく、洋楽ヒットチャート事典(八木誠監修・著)によれば1957年のTOP40では34位だった。日本でのエルヴィスは、ベストテンに2曲を送り込んだパット・ブーンの後塵を拝していたのだ。
そして年をまたいだ1958年のTOP50 でも「監獄ロック」は20位にランクされたものの、「ダイアナ」と「君はわが運命」の2曲をベストテンに送り込んだ17歳のポール・アンカが大きくブレイクしたので、すっかりその影に隠れてしまった。
エルヴィスの映画第1作となった『ラヴ・ミー・テンダー(やさしく愛して)』は、な若手の人気歌手が映画デビューするために用意された、ありふれた白黒の西部劇だった。そして映画の出来もエルヴィス・プレスリーの演技も、今ひとつだったと見なされた。
だが主題歌の「ラヴ・ミー・テンダー」が事前に大ヒットしたこともあり、映画は公開から3週間で総製作費の100万ドルを超える収入を記録して成功を収めた。
日本ではアメリカから半年遅れの1957年2月16日に『やさしく愛して(ラヴミー・テンダー)』のタイトルで、築地にあった松竹セントラル劇場で劇場公開されている。
記録によれば初日の9時から「プレスリイ日本初公開記念ショウ」と称して、「プレスリイ・ヒット・ソング・アルバム」が開催されたという。
そこではキングレコードからデビューしていたジャズ歌手のペギー葉山が、ビッグバンドの渡辺弘とスターダスターズをバックにエルヴィスの曲を歌ったらしい。だが映画公開を盛り上げようとしていたことは分かっても、どことなくそぐわないという感じは否めない。
当初はエルヴィスをカントリー歌手として売り出した日本ビクターは、映画公開を期に、日本のみの商品として4曲入りEP盤『「やさしく愛して」主題曲集』を発売した。また、映画による人気上昇を見込んで3月20日に「ラヴ・ミー・テンダー/どっちみち俺のもの」を筆頭に、6枚のシングル盤を一斉に発売している。
ところでレコードの発売元だった日本ビクターは名前の表記を当初、エルヴィス・プリースリーにしていたのだが、1957年にはエルヴィス・プレスリーに決めたようだ。
しかしながら映画配給各社はそれに従わず、1970年代まで”エルビス”の表記をタイトルやクレジットに使い続けていった。
それから10数年間も名前が統一されなかったのは、おそらくは映画会社の都合だったのだろうが、エルヴィスと日本の不幸なめぐり合わせが垣間みえてくる。
映画第2作となった『さまよう青春』は、大御所だった映画プロデューサー、ハル・B・ウォリスが自ら製作にのりだしたパラマウントの第1回作品だ。
孤児院育ちの若者が音楽業界で一気にスターダムにのし上がるという自伝的な物語の中で、エルヴィスがロックン・ロールからスイートなラブソングまでを歌いまくるという内容だった。
前作がモノクロだったのに対して色も鮮やかなカラーだったこともあり、熱狂的なファンを対象にしていたアメリカでは十分すぎる収益をあげる作品になって大成功を収めた。
1958年4月27日から1週間だけ公開された日本では、エルヴィス・ファンを大いに満足させたのだが、一般にまで魅力を広めるには至らなかった。
映画『監獄ロック』
だが、この後に第3作の『監獄ロック』が公開されていたならば、その内容やクオリティからして日本でもエルヴィスの人気は一気に爆発した可能性が高い。
そうなっていたならばエルヴィスはエンターテイナーとしてだけでなく、世界中の若者にロックンロールの力を知らしめた革命児として、正当に評価されることになったに違いない。
しかしエルヴィスが3月から兵役について陸軍に入ったことによって、2年間も芸能活動が行われないことが判明していたせいか、配給元のMGMは『監獄ロック』の公開を見送ってしまう。
その間に日本では日劇ウエスタンカーニバルが2月8日の開催されて、突如としてロカビリー・ブームの熱狂に包まれていった。
そこから平尾昌晃や山下敬二郎、ミッキー・カーチスといった10代の若者たちが次々にスターになっていったが、彼らこそはエルヴィスから多大な影響を受けたフォロワーだった。
ところがロカビリー・ブームの原点がエルヴィスであったことが明らかになっていくと同時に、日本でもやはり青少年の不良化という問題に結び付けられて、ロカビリーそのものが社会的に問題視されていくことになった。
やがてロカビリー歌手はテレビから一斉に閉め出されてしまったのだが、それでも人気が一向に衰えなかったことで、1959年2月25日にエルヴィスが入隊前に撮影した『闇に響く声』がパラマウントによって公開された。
『監獄ロック』はここでもタイミングを逸してしまって、ついに日本の若者の目に触れることがないまま、そこからさらに3年間も埋もれてしまったのである。
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