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「太陽がいっぱい」で、美男の代名詞となった男アラン・ドロン、書かれざる生い立ち

2016.09.30

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インドシナ戦争からの帰還兵

アラン・ドロンは、1935年、パリ郊外、ソーの街に生まれた。
幼い頃に父を亡くすが、家族不和が続き、寄宿学校を転々、感化院に送られたこともあった。17歳の時、身のおきどころを失い、自ら志願してフランス外人部隊に。第一次インドシナ戦争で実戦を体験、1955年、ディエンビエンフー陥落によって帰還する。

「ぼくは家族に見捨てられた孤独な野生動物のようなものさ。そうでもなけりゃ、誰が志願して戦争などに行くものか」とインタビューで吐き捨てたという逸話がある。

ヴィスコンティとの出会い

ルキノ・ヴィスコンティの眼にとまって、映画の世界へ。
シチリア貴族出身の映画監督で、ヨーロッパ文化を代表する存在であったヴィスコンティは、アラン・ドロンにとって、足もとにも近寄りがたい存在だったが、短い時間で気を許しあう間柄となったことがしのばれる。

「ぼくに映画のすべてを教えてくれたのはルキノ・ヴィスコンティ」と言うように、ヴィスコンティは「若者のすべて」(1960年)のロッコ、「山猫」(1963年)のタンクレディと、大切にあたためてきた大役をアラン・ドロンに与えている。

アラン・ドロン・ブーム

出世作にも恵まれていた。「太陽がいっぱい」(1960年)は、「禁じられた遊び」、「居酒屋」を撮った世界的名匠、ルネ・クレマンの作品。

この一作、「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンはスターダムの第一線に立ったばかりではなく、「アラン・ドロン・ブーム」とまで言われる世界現象を呼び起こす。

「太陽がいっぱい」の下敷きとされた原作「リプリー」は、女流作家パトリシア・ハイスミスの作品。

陽光さしこめる避暑地サントロペで展開される青春映画を思わせるが、物語は、贅沢しか知らない富豪の息子と、貧しさしか知らない男が織りなす愛憎劇。アラン・ドロンは、世の中に対するねたみ、そねみ、恨みまでも酷薄に演じきっている。

1962年には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」が続く。これほど短期間のうちに、三大監督の主演を体験することは前例がない。


本物の暗黒街作家との友情

アラン・ドロンには、ヴィスコンティにも比すべき、もうひとりの「父」がいた。彼の名はジョゼ・ジョバンニ。
コルシカ島の生まれで、第二次大戦後、ギャングとつながる前歴を持つ異色の作家として知られる人物。11年服役の後、恩赦で釈放という過去を持つ。50年代から「フィルム・ノワール」と呼ばれる犯罪映画の監督として活躍し、ドロンと終生続いた友誼(ゆうぎ)から多くの名作が実を結んだ。

 1967年の「冒険者たち」、ジャン・ギャバンと共演した「暗黒街のふたり」(73年)「ル・ジタン」(75年)がそれらの作品である。

 「冒険者たち」は、色合いを変えて、おとなの恋愛仕立ての作品となっており、女性ファンたちから、「何度でもくりかえし見たい恋愛映画」のベスト・ワンにたびたび選ばれている。

 物語は、コンゴ動乱後、行方がわからなくなった5億フランの財宝を巡って、飛行クラブの教師のマヌー(アラン・ドロン)、カーレーサーのローラン(リノ・バンチュラ)、女流彫刻家のレティシア(ジョアンナ・シムカス)という奇妙な友情に結ばれた三人が、パリの大空に、コンゴの海深く、数々の冒険を繰り広げるストーリー。どことなく大人になりそびれた、ふたりの男と女がひとり。

 女ひとりと男ふたりという設定は珍しくないが、硬派ジョバンニの原作だけあって、男ふたりは、それぞれの思いを胸に畳み、相手の気持ちを思いやりながら海の旅に出る。

 原作はジョゼ・ジョバンニ。ロベルト・エンリコが監督をつとめている。全編を通じて流れる主題曲「レティシア」を書いたのは、フランソワ・ド・ルーベ。

 ギャングの流れ弾にあえなく死をとげるレティシアへの鎮魂歌は、大ヒットとなり、多くの人々の胸にいつまでも深く響いたのである。




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