『Frank Sinatora has a cold』シナトラ、風邪をひく
うまいタイトルである。なにかと思わせておいて、風邪をひいたシナトラとは、「絵の具をなくしたピカソ」、「燃料の切れたフェラーリ」と、小粋につなげられると先が読みたくなってくる。
これを書いたのはゲイ・タリーズ。
60年代後半、「ニュー・ジャーナリズム」と呼ばれる手法で、ノンフィクションの世界に新風を吹きこんだ書き手である。
シナトラ本人をインタビューするかわりに、100人をこえる周辺の人々に会う方法を彼は選んだ。靴の底をすりへらして、調べあげる手法である。
「風邪ひきのシナトラは、くしゃみひとつで、娯楽産業全体に衝撃を走らせる。それは、合衆国大統領の急病がアメリカ経済全体に及ぼす影響以上だ」
ゲイ・タリーズはそう書いた。
全盛期の1961年。ジョン・F・ケネディ大統領就任式の祝賀パーティの一切合財を仕切ったのはフランク・シナトラであることはよく知られている。
表の力、裏の顔。一介の歌手でありながら、そんなところまでのぼりつめた人物は、シナトラをおいて他にない。
遅れてきた移民の子
アメリカは「移民の国」と呼ばれる。そのなかで、新参の移民たちは、旧来のアメリカ人たちにつまはじきにされる。それは宿命のようにくりかえされてきた。
「遅れてきた移民」の子であるフランク・シナトラは、イタリア人として、厳しい風当たりのただ中で育った。
末っ子のひとり息子として生まれた彼の少年期は、ひとり仲間外れにされ、寂しいものだったといわれる。
つきあいのあった作家のピート・ハミルは、シナトラのこんな言葉を覚えている。
「トラブルの半分は、俺の名前が母音で終わるからさ。なんでも悪いことは俺と結びつける。ほかにもいっぱいいるが、俺は、ステージで歌っている。見つけやすい、目立つんだ。いい標的ってとこだ」(ピート・ハミル著「ザ・ヴォイス」より)
15歳で酒場に立って歌いはじめたのも、生活のため、失うものはなにもなかった。
「どんなくだらない仕事でもやった。なぜだかわかるか。子供たちにはそんな仕事をさせたくなかったからだ」
アメリカの音楽事情を一変させる出来事が起きたのは、シナトラの幼年時代のこと。
ラジオと蓄音機の爆発的な普及である。ラジオにかじりついているうち、誰でも最新のヒット曲が覚えられるようになった。英語がわからない移民たちでも、聞き覚えで歌って稼ぐ道が拓けた。歌の世界をめざすイタリア系の少年たちはたくさんいた。
バーのラウンジで見いだされるまでには、人知れぬ苦労の日々があった。
・歌手のためならバイリンガルにでもなる
「バイリンガルになろうと決めたんだ。仲間と話す時とひとりで部屋にいる時と、話し方をまったく変えた。せっせと練習してさ」
シナトラが細心の注意をはらったのは洗練された英語の発音だった。
「クリームのように滑らかな母音と切れのいい子音」。
心地よい響きを彼は多くのレコードや映画のスクリーンから学んでいた。
「最初の頃、自分の楽器は声かと思っていたがそうではなかった。マイクロフォンだったんだ」
当時、ステージ・マイクはまっすぐ固定され、歌手も直立不動で歌っていた。
シナトラはマイクを握り、ひきよせたり離したりするテクニックを身につけた。耳元で囁くような繊細な表現はこうして生まれた。
声は時代を映しだす鏡という表現がある。声にも流行りやりすたりはある。
「俺は夜の中にしか生きられない」
シナトラの言葉は有名だが、彼がイメージしたクールな世界は、都会派のアメリカ人の好みとぴたりと重なっていた。
同時代の歌手には誰ひとり真似のできないことだった。
歌手は誰でも、歌いあげたいテーマを持っているといわれる。
シナトラにとってそれは何だったのだろうか?
どんな曲を聴いても、もの寂しい余韻が残る。
「シナトラはタフガイの時代に、かえって男のひ弱さや寂しさを隠すことなく描いた」ピート・ハミルは書いている。
「正真正銘の気まぐれ人間、矛盾の塊。それが俺の人生だ。多少のツッパリと寂しがりやが同居しているんだと思う」
シナトラ自身の言葉だが、その寂しさの本当の深さは、いまだに誰も知らない。
(このコラムは2015年6月30日に公開されたものです)
参考資料:「有名と無名」ゲイ・タリーズ著 沢田博訳 発行 青木書店、「ザ・ヴォイス」ピート・ハミル著 馬場啓一訳 発行 日之出出版
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