一世を風靡した年若いスターがヒット曲に恵まれなくなって人気が急速に下降し、メディアに取り上げられなくなって世間から徐々に忘れられていく。
やがてかつての栄光の日を取り戻そうともがきながらも、二度と泥沼から抜け出せなくなって自滅していくという芸能人の悲劇。
そんな現実を身近にたくさん見てきたからだろうか、かまやつひろしは実力以上にもてはやされることを常に回避してきたようにみえる。
「エッジィな男 ムッシュかまやつ」(サエキけんぞう 中村 俊夫・著)には、独自の”直感力”についてこんな記述が出てくる。
人気稼業がゆえの冷酷な現実を、盟友である三人ヒロシの仲間たちの姿を通して若い頃から肌身に感じていたであろうムッシュにとって、スターダムにのし上がると言うことは決して手放しで喜べることではなく、成功と引き換えに待ち構えている大きな落とし穴の存在をとても警戒していたように思える。それもまた彼特有の”直感力”なのかもしれない。
1958年2月に突如として巻き起こったロカビリーブームではまず最初に平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスがスターダムに駆けあがって、”ロカビリー3人男”と呼ばれた。
その直後にウェスタンカーニバルで売り出されたのがパラダイスキングの水原弘、ドリフターズの井上ひろし、そしてワゴン・マスターズのヒロシ釜萢による”三人ヒロシ”である。
そこから1959年の後半に「黒い花びら」が大ヒットした水原弘が、第1回レコード大賞を受賞してスターの座について歌謡曲へと転じた。
そのときに水原が抜けた”空席におさまったのが、スイングウェストのバンドボーイだった守屋浩である。
その守屋は1960年に入ってすぐに「僕は泣いちっち」がヒットし、そこから歌謡曲路線へと進んで続く「有難や節」が大ヒットした。
井上ひろしもまたその年の秋、戦前の流行歌「雨に咲く花」を歌ってリバイバル・ヒットをものにして、同じく歌謡曲に転向していった。
その間に一度もヒット曲が出なかったかまやつだけが、いわば取り残される形で”三人ヒロシ”は自然消滅してしまう。
ところが若くしてスターになった3人の栄光の日々は続かず、人気が下降するにつれてキャバレーまわりなど営業の仕事で暮らす冬の時代を迎えた。
水原は1966年に「君こそわが命」をヒットさせて華々しいカムバックを遂げたが、3年もしないうちにまたしても冬の時代に戻ってしまった。
そして復活を目ざしていた1978年、巡業先で動脈瘤破裂のために入院してそのまま死亡している。享年42。
長く続いた低迷期に見切りをつけて料理店を経営しようと井上もまた、調理の勉強を始めた1985年に心筋梗塞のため急逝している。享年44。
それにくらべるとかまやつひろしは自然体で、穏やかで漂々としたキャラクターをつくりあげて、B級ミュージシャンとして生きる美学を身につけたことによって、生き急ぐように倒れた二人のヒロシより30年以上も長生きした。
そして最後まで現役のミュージシャンとして、音楽に捧げた生涯を全うした。
「エッジィな男 ムッシュかまやつ」を読んでいると、フランス語に由来するムッシュという名で愛された人物が、若くて無名の頃から一貫してミュージシャンであったことがよくわかる。
著者のひとりであるサエキけんぞうが、「はじめに」でこう述べている。
多くの人はムッシュをカメレオンと呼ぶ。一口にいい表すことができない多様な色をまとい、様々な場所に現れ、有名無名を問わず広い人脈と交流を持ったからだ。「俺はムッシュと親しい」、そういう自負を持つ人も「こんな人と付き合ってた?」「こんな音楽やってたの?」と驚かされたことが多いのではないかと思う。そんなムッシュをできる限り調べた。
ロスアンジェルス生まれの日系二世だった父は、戦前の日本にやってきてジャズトランペットのミュージシャンとして活躍した。
戦後もミュージシャンだけでなく、ジャズ・ヴォーカルの先生を務めた。
かまやつはこの世に生を受けたときから、芸能界やショービジネスの世界が身近だった環境で育った。
だから普通のことのようにその世界に身を置き、若くして音楽活動を始めるようになった。
にもかかわらずシンガーやバンドマンであっても、芸能人にはならないようにしていたことが随所からうかがい知ることができる。
かまやつひろしには生涯で二度、スターになるべき絶好の好機が訪れた。
だが、そのたびに冷静な判断を下して、そうならないようにと迂回していたという。
最初は1966年にスパイダースの「夕陽が泣いている」が大ヒットして、テレビや映画で大忙しになったときのことだった。
後年のインタビューで彼は「スパイダースは〈夕陽が泣いている〉で終わったんです。世の中では、それがスパイダースの始まりであり、GSブームのスタートだったけど、俺の中では火が消えた。それまでの音楽的にマニアックだったファンが離れて、代わりに一般大衆がワッと増えたけど、彼らはタイガースが出てくると、そっちに移っていった」と述懐している。
かまやつは人気という、得体の知れないものの恐ろしさを知っていたのだ。
GSブームがあっという間に下火になってスパイダースの人気も急下降した1969年、かまやつはフォーククルセダーズを解散してまもない北山修と、六本木の俳優座で「フォークソングをぶっとばせ」というコンサートを開催している。
北山はこの時まだ京都府立医科大の学生だったが、かまやつには「ミュージシャンらしくない、ある種の律儀さを持った、若いけれど頼れるタイプの人」に見えたという。
そこへ出演したのは岡林信康とバックバンドだったはっぴいえんど、それに五つの赤い風船、ジャックスなどである。
当時はアンダーグラウンドと呼ばれていたが、音楽ムーブメントの最先端にいたシンガーやバンドたちだ。
もちろん、アングラフォークに興味あったがあったからやったのだが、ぼくとしては、やらざるを得ないという気持ちが強かった。こういうことをやっておかないと取り残されてしまう、置いていかれるという焦りもあったのである。
かまやつは1971年にスパイダースが解散した後、芸能界から少し距離を置いてフォークやロックに接近し、積極的に新しい音楽に挑んでいった。
そうした流れの中で手がけたのが、将来性を嘱望されていた19歳の荒井由実で、デビュー・シングル「返事はいらない」をプロデュースしている。
そして1975年、スターになる2度目のチャンスが訪れた。
吉田拓郎の作詞作曲による「我が良き友よ」が大ヒットし、シングル盤が100万枚近いセールスを記録したのである。
ところがこのときもかまやつは冷静で舞い上がることなく、自分の歩むべき道を決めていた。
それは成功してメインストリームで脚光を浴びることではなかった。
自分の関心のおもむくままに音楽に接しながら、そこで出会った人たちとともに純粋な気持ちのまま、自分の音楽を表現していくことだった。
一曲ヒットを出したら、次もヒット曲を出すことが強要され、ただひたすらヒットのみを考えて活動を続け、もし不発に終わったら、”一発屋”のドサ廻り仕事が待っている‥‥。そんな自分の未来図に恐怖すら覚えたのだろう。結局ムッシュは所属事務所の田辺エージェンシー(「我が良き友よ」制作時に所属)を辞め、再びフリーランスのシンガー・ソングライターに戻り、ヒット競争とは無縁のフィールドでマイペースの音楽活動を続けていくことを選択したのである。
しかし、いつもひょうひょうとして自由人だっらかまやつだったが、しっかりバランスを取っていたエピソードも記されていた。
アルバム『我が名はムッシュ』を制作中に、テレビのバラエティ番組に出演していたかまやつが、その中で逆さ吊りにされているシーンを見たプロデューサーの小西康陽は、どうしてそんな仕事までやるのかを本人に尋ねたという。
ムッシュは「たまにテレビに出てないと忘れられちゃうからね」と笑って答えたという。「B級ミュージシャンに徹する」ためには、こんなクールな計算力としたたかさも必要不可欠だったのである。
いわばA級ミュージシャンとしてではなく、自らB級ミュージシャンに徹することで、かまやつしろしは自由なスタンスで活動することができたのだという。
かまやつひろしの、簡潔な言葉で締めくくりたい。
地味でも良いから自分のリスペクトする音楽をやって行きたい。生涯B級ミュージシャンでいたいと思ったわけです。
〈参考文献〉サエキけんぞう (著)、中村 俊夫 (著) 『エッジィな男 ムッシュかまやつ』(リットーミュージック)。本文中の引用はすべて、同書によるものです。
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