日本で最初のオリジナルのロック・ナンバーとなった「フリ・フリ」(作詞・作曲かまやつひろし)を、1965年に発表したザ・スパイダースは日本語のロックの原点と呼ぶべき存在だろう。
「フリ・フリ」が誕生したのは新メンバーとして加入したかまやつひろしに、リーダーの田邊昭知が「かまやつ、何かひとつオリジナルを作れ」と指示したからだった。
それから約1年後の1966年の4月15日、日本のバンドとしては初の全曲オリジナル・ソングによるアルバム『ザ・スパイダース・アルバムNo.1』が発表された。
ジャックスが1968年に作ったアルバム『ジャックスの世界』よりも2年、1970年に発表されたはっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』よりも4年も早い。
しかし当時は誰もそのことに関心を払わなかったし、シングル盤のヒットが出なかったのでさほど話題にもならなかった。
そのためレコード会社の意向でベテランのソングライター浜口庫之助が書いた「夕陽が泣いている」を、スパイダースはシングルとして出すことになった。
1966年の秋に発売された「夕陽が泣いている」は、スパイダースがヨーロッパで発売されたアルバム『サッド・サンセット』のプロモーションで、3週間ほどヨーロッパ・ツアーに出かけている間に日本でヒットし始めていた。
ヨーロッパから帰国したメンバーたちはヒットに気を良くしつつも、6月のビートルズ来日公演が及ぼした影響によって、歌って演奏するバンドが一斉に誕生してきたことに驚かされる。
ビートルズを体験した直後に加瀬邦彦が結成したザ・ワイルドワンズを筆頭に、以前はブルー・コメッツとスパイダースしかいなかったヴォーカル・インストゥルメンタル・グループがあっという間に増えていたのだ。
そしてワイルドワンズのデビュー曲「想い出の渚」が11月から大ヒットし、年が明けた2月にタイガースが「僕のマリー」でデビューしてグループサウンズ(GS)の時代がやって来る。
それに続けとばかりにカーナビーツ、ジャガーズ、ゴールデン・カップス、テンプターズ、ビーバーズ、491、アウトキャスト、リンド&リンダーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、モップス、ダイナマイツ、オックスなど、その数300ともいわれるGSのブームが巻き起こった。
しかし1967年から68年にかけて大きな盛り上がりをみせたGSブームは、過剰なまでの競争と商業主義の常でヒットを狙った曲が量産されたためにマンネリ化し、1969年に入ると波が引いたように退潮してバンドの解散が相次いだ。
すっかりGSブームが沈静化してしまった1970年に、かまやつひろしはユニークなソロ・アルバムを制作する。
技術の進歩で多重録音が出来るようになったことから、自分でプロデュースしてワンマン・レコーディングのアルバムを思いついたのだ。
今ではなんの目新しさもないワンマン・レコーディングだが、まだマルチ・テープレコーダーが8チャンネルから16チャンネルに移行しつつあった時代に、アルバム全てをそれで統一するのは画期的なアイデアだった。
スパイダースのアルバムのなかでも、かまやつひろしは一人ですべての楽器を演奏して自分で歌った曲を3曲発表していた。
それらも加えたアルバムの全曲の作曲・編曲がかまやつひろし、作詞には俳優の石坂浩二、作詞家の安井かずみとなかにし礼、テンプターズの萩原健一などが参加した。
こうして幅広い交友関係の仲間たちとともに、ジャンルの壁を越えた遊び心のある実験的な作品が出来上がった。
当時としては自分が世界初じゃないかと思っていた。ところが。実はジャズ・ピアニストのキース・ジャレットがすでに試みていたのだ。ただ、ポール・マッカトニーよりは早かった。自慢じゃないが。
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アルバム『ムッシュー かまやつひろしの世界』を聴いて、すぐに反応したのが内田裕也で、「すごいよ!あのレコード」と真夜中に興奮した声で電話がかかってきた。
スパイダースが解散した後のかまやつひろしはフォークの若い世代と積極的に交流を持ち、中津川フォークジャンボリーに参加するなど、ジャンルを軽々と越境して自由自在に音楽を続けて、吉田拓郎が書いてくれた「我が良き友よ」で大ヒットを放った。
なお大瀧詠一によれば、かまやつひろしははっぴいえんどのファースト・アルバムを、「先輩および現役ミュージシャンとして一番早く評価してくれた人」だったという。
(このコラムは2016年4月2日に公開されたものに一部修正を施したものです)
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