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追悼・加瀬邦彦~沢田研二の「TOKIO」が開いた80年代の扉

2024.04.19

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1979年12月31日の深夜、70年代という1つの時代が終わり、新たな時代の幕開けが目前に迫っていた。
当時は大晦日から元旦にかけてのテレビ番組「ゆく年くる年」が、NHKのほかにも在京の民放キー局が連携して各局の持ち回りで制作されていた。
民放は93局ものネットになり、どの民放チャンネルに合わせても画面は同じものが流れていたのである。

民放の「ゆく年くる年」のスポンサーはセイコーで、いよいよ’80年代に突入するということでカウントダウンは例年以上に盛り上がりを見せた。
 
1980年1月1日、セイコーの時計が0時の時報を告げたあと、一瞬の闇の中で電飾が点滅し始めると、ディストーションの効いたエレキギターの音が流れだした。

そこに登場したのはミリタリールックにいくつも電飾をつけ、パラシュートを背負って光っている沢田研二だった。


画面を見ていた人の多くが、意表をついた派手な演出に度肝を抜かれる中、沢田研二の歌う「TOKIO」が80年代の到来を知らせた。
除夜の鐘を聞きながら静かに新年を迎えるNHKの「ゆく年くる年」とはまさに対照的、派手派手で民放らしい「ゆく年くる年」の幕開けとなった。

「TOKIO」の作詞を手がけたコピーライターの糸井重里は、後にこう述懐している。

「さあ正月が始まるという暮れに、
 ジュリーがパラシュートをつけて歌ったんですよ。
 それをテレビで見て本当にショックだったんです。
 つまり、自分でやった仕事なのに、
 『あ、俺はなんか違うところに行っちゃったな』
 と思ったの。」


沢田研二のソロとして13枚目となるオリジナル・アルバム『TOKIO』は、1979年11月25日にリリースされた。
その1曲目が「TOKIO」で、作詞・糸井重里、作曲・加瀬邦彦、編曲・後藤次利によるテクノ風なロックナンバーである。

プロデューサーの加瀬邦彦は、GS時代に作曲を通して関わりが生まれたザ・タイガースの沢田研二を、バンド解散後のソロ活動でプロデューサーとして支え続けてきた人物だ。

70~80年代にかけて、「危険なふたり」「追憶」「TOKIO」などの曲を作曲しただけではなく、奇抜とも言える様々なビジュアル面でのアイデアや、常識にとらわれない新しいコンセプトを持ち込んで、クリエイティブな作品作りを行なっている。

「グループサウンズって長く続かないとだろうな」と思っていた加瀬邦彦は、まだ日本では仕事も立場も認知されていなかったプロデューサーを目指していた。
それは沢田研二がいたからだったという。
 

やるんだったらジュリーだなって。
ジュリーは歌謡曲だけど、
ポップスなシンガーとして絶対確立できるなと思ったから、
それをやりたいなと。


1973年に「危険なふたり」が大ヒットし、その年の「紅白歌合戦」で沢田研二の衣装が話題になった。
その衣装を作った早川タケジを見つけてきたのも、やはり加瀬邦彦だった。
そこからは加瀬邦彦、沢田研二、早川タケジの3人で意見を出し合いながら、衣装やパフォーマンスを決めていくチームが自然に生まれたのだった。

そして1980年代を迎えるにあたって、新しいサウンドにこだわっていた加瀬邦彦は、いち早くテクノポップを取り入れた「TOKIO」を作り上げる。

ちょうどその頃にロンドンからパリ、ニューヨークとワールドツアーを行っていたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が、10月に最初のシングル盤の「テクノポリス」を発売している。
「テクノポリス」では曲中には、「TOKIO(トキオ)」という言葉がたびたび繰り出されている。
『TOKIO』の発売はその1か月後だったが、東京を“TOKIO”と呼ぶ感覚はYMOにも通じる新鮮さがあった。

時代の最先端をキャッチする加瀬邦彦の感性とともに、沢田研二はアイドルの頂点へと登り詰めていく。
それは同時に加瀬邦彦が、沢田研二のプロデューサーとして、ひとつの到達点に立ったことの証明だった。


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