コルネット奏者、ビックス・バイダーベック。1920年代、ジャズ史上はじめて“白人ジャズ”を確立した人である。
もちろんそれまでにも白人が演奏するジャズはあったが、それらは皆黒人の物真似でしかなかった。ところがビックスの吹くジャズは、感情がクールに抑制され、知的なムードを漂わす新しい表現方法だった。意図的に黒人とは違うジャズを生み出そうとしたわけではなく、自分自身を偽らずに表現することで、当時ルイ・アームストロング流の演奏スタイルが主流だったジャズシーンに、文字通り“新風”を吹き込んだのだ。
1931年8月6日、28歳の若さで世を去ったビックス・バイダーベックの足跡をあらためてご紹介します。

──1903年3月10日、アメリカ中部の農業地帯であるアイオワ州ダデンポートに生まれたビックスは、3歳で音楽の才能を発揮しはじめ、8歳の時には先生よりも上手にピアノを弾きこなす“天才肌”だった。しかし、音符を一つ間違えただけでも落ち込む性格だったため、楽譜どおりに弾く音楽には次第に息苦しさを感じるようになる。
第一次世界大戦後のある日、戦争から帰ってきた兄が蓄音機とレコードを持って帰ってきた。その中に、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの「Tiger Rag」があった。

そんな中、次第にバンド仲間たちと密造酒を飲み始めた。それを知ってショックを受けた両親は、息子を厳格なレイクフォレストの寄宿学校に転入させる。しかし、レイクフォレストはシカゴに近かったので、ビックスはますますジャズに熱中していった。この頃、ちょうどシカゴで活躍していたルイ・アームストロングの演奏を聴いて強い衝撃を受けた。
20歳になると、コルネット演奏者として本格的にジャズ界へと身を投じる。そして23歳でジーン・ゴールドケット楽団のツアーに参加するようになり、フランキー・トランバウアーと運命的な出会いを果たす。翌1927年、二人にとって最大のヒット曲となる「Singin’ the Blues」を録音。

感動したルイは、ビックスを誘って閉店後のクラブで一緒に演奏をしたという。しかし、二人は人種差別の影響から、客前で揃ってステージに立ったりレコードを録音したりすることはできなかった。
──程なくして、世界恐慌の引き金となったウォール街の大暴落によって、ビックスは銀行に預金していた大金をすべて失ってしまい…そのショックからアルコールに溺れていく。出演をすっぽかしたり、演奏を間違えたり、ステージでも飲酒したりするようになる。遂にはアルコール依存症の治療センターに入院。しかし、アルコールを断つことはできず、楽団には二度と戻れなかった。
すべてを失ったビックスは、一人でニューヨークのアパートで暮らしていた。そして1931年8月6日、肺炎に伴うアルコール禁断症候群の発作を起こし自宅のベッドでこの世を去った。
ビックスが活躍した時代は、いわゆるディキシーランドジャズの全盛期。ルイ・アームストロングに比べると知名度は低かったが、死後50年以上も経って公開されたフランシス・フォード・コッポラの映画『コットンクラブ』(1984年)で、リチャード・ギアが演じた主人公がビックスをモチーフに描かれたことをきっかけに、その名が広く知られることとなった。

ビックスの偉大な才能を知るには、たった二曲を聴くだけで十分だ。
“Singin’ the Blues” と “I’m Comin’ Viginia” 。
素敵な演奏はほかにもいっぱいある。
しかし異能のサックス奏者フランキー・トランバウアーと組んだこの二曲を越える演奏は、どこにもない。
それは死や税金や潮の満干と同じくらい明瞭で動かしがたい真実である。
たった三分間の演奏の中に、宇宙がある。
<引用元『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)/村上春樹・和田誠著>
Bix Beiderbecke, Volume I: Singin’ The Blues
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