「8月28日、日本人俳優として唯一アカデミー賞を受賞したナンシー梅木(享年78)が闘病の末この世を去った。」
2007年9月5日、アメリカのワシントンポスト紙が彼女の訃報を伝えた。
ミズーリ州オザークのリッキングにある医療保養施設で静かに息を引き取ったという。
死因は癌だった。
1957年に出演したハリウッド映画『サヨナラ』でマーロン・ブランドと共演した彼女は、アメリカ人の夫への献身的な愛情を貫く日本人女性を見事に演じ、第30回アカデミー賞で助演女優賞を獲得した。
国内外のメディアは、史上初の日本人オスカー女優の誕生を祝福し、その快挙を讃えた。
元祖国際派女優として世界に誇れる受賞歴を持つ彼女だったが、その華やかなキャリアの陰でどんな私生活を送っていたのだろう?
ある日突如として芸能活動から遠ざかり、マスコミの取材などにも一切応じていなかったため長い間彼女の近況は不詳とされていた。
今日は日本人唯一のオスカー女優の足跡と功績、そしてその歌声をご紹介します。
1929年5月8日、彼女は北海道小樽市で生まれた。
本名は梅木美代志。
第二次世界大戦後、進駐軍の将校クラブの演芸担当だった永島達司(日本初のプロモーター/キョードー東京の設立者)がアメリカの英語曲を歌える歌手として彼女の兄を雇った際に「妹のほうがうまい」と聞き、一度歌わされたことがすべての始まりだった。
まだ十代だった彼女は“ナンシー梅木”の芸名で、米軍キャンプンなどでジャズを歌うようになる。
1948年、当時19歳だった彼女はプロのジャズシンガーを目指して上京。
東京では角田孝&シックスやレイモンド・コンデ率いるゲイ・セプテットなどのジャズバンドで歌い、1950年に日本ビクターからデビューを果たす。
「スイングジャーナル誌」の女性ヴォーカル人気投票では、1951年から1953年まで1位を独占するほどの人気ぶりだったという。
また『青春ジャズ娘』(1953年)、『ジャズ・オン・パレード1954年 東京シンデレラ娘』(1954年)などの和製ミュージカル映画にも出演。
1955年、26歳を迎えた彼女は、外国タレントの呼び屋としてアメリカ芸能界と縁のあった永島の助言で、音楽の勉強のため渡米を決意する。
その年に出場したアメリカのタレントスカウト番組『Arthur Godfrey Talent Scouts』でチャンスを掴み、CBSテレビ『Arthur Godfrey Talent Show』に着物姿で出演して英語の曲を歌い大きな注目を集める。
同年、マーキュリーレコードから「How Deep Is the Ocean」という曲で米国デビューを果たす。
翌1956年に発表したLPアルバム『Miyoshi Sings For Arthur Godfrey』では英語と日本語を交えて日米両国の楽曲を歌っている。
1957年、アメリカでも歌手として名前を知られるようになった彼女はマーロン・ブランド主演の映画『サヨナラ』でハリウッドデビューを果たす。
この映画の演技でアカデミー助演女優賞を受賞。
当時、東洋人の俳優としては初のアカデミー賞受賞であり、また助演女優賞をアメリカとイギリス以外の俳優が受賞したのも初めてのことだった。
その後、1958年にブロードウェイミュージカル『The Flower Drum Song』で主演を務めトニー賞のミュージカル部門最優秀女優賞にノミネートされる。
その他の映画出演作品には『嬉し泣き』(1961年)、『戦略泥棒作戦』(1962年)、『忘れえぬ慕情』(1963年)などがある。
また、1969年から3年間に渡って放映されたテレビドラマ『エディの素敵なパパ』にもレギュラー出演している。
プライベートでは、テレビディレクターのフレドリック・オピーと結婚したが…長くは続かず離婚。
1968年にドキュメンタリー監督のランドール・フッドと再婚。
オスカー女優として、ハリウッドで華々しい成功をおさめたナンシーだったが、1972年(当時42歳)に突如女優業を引退。
翌1973年、夫のランドールが胃がんで死去。
最愛の人をなくして失意のどん底にあった彼女は、オスカー像を自らの手で壊してしまう。
その一部始終を、息子のマイケル・フットは見ていたという。
「あの時は理解できなかったけれど、今ならわかるような気がするよ。像を壊すことによって、母は父との思い出を永遠に自分のものにしようとしたんだ…」
以降、彼女はショービジネスの世界とは距離を置いた。
その姿勢は徹底しており、仕事関係の友人・知人からの前から消息を絶ち、ショービジネスに身を置いていた時代の思い出の品を処分したという。
一時期ハワイに移住した後、晩年はミズーリ州で息子夫婦や孫と暮らしていた。