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ナンシー梅木を偲んで〜日本人唯一のオスカー女優が残した歌声と足跡

2026.08.26

「8月28日、日本人俳優として唯一アカデミー賞を受賞したナンシー梅木(享年78)が闘病の末この世を去った。」


2007年9月5日、アメリカのワシントンポスト紙が女優の訃報を伝えた。ミズーリ州オザークのリッキングにある医療保養施設で静かに息を引き取った。死因は癌だった。

1957年に出演したハリウッド映画『サヨナラ』でマーロン・ブランドと共演したナンシー梅木は、アメリカ人の夫(レッド・バトンズ)への献身的な愛情を貫く日本人女性を見事に演じ、第30回アカデミー賞で助演女優賞を獲得した。国内外のメディアは、史上初の日本人オスカー女優の誕生を祝福し、その快挙を讃えた。

元祖・国際派女優として世界に誇れる受賞歴を持つナンシー梅木だったが、その華やかなキャリアの陰でどんな私生活を送っていたのだろう? ある日突如として芸能活動から遠ざかり、マスコミの取材などにも一切応じていなかったため、長い間近況は不詳とされていた。日本人唯一のオスカー女優の足跡と功績、そしてその歌声をご紹介します。

1929年5月8日、北海道小樽市で誕生。本名は梅木美代志。第二次世界大戦後、進駐軍の将校クラブの演芸担当だった永島達司(日本初のプロモーター/キョードー東京の設立者)がアメリカの英語曲を歌える歌手として兄を雇った際に、「妹のほうがうまい」と聞き、一度歌わされたことがすべての始まりだった。

十代だった少女は“ナンシー梅木”の芸名で、米軍キャンプンなどでジャズを歌うようになる。1948年、プロのジャズシンガーを目指して上京。東京では角田孝&シックスやレイモンド・コンデ率いるゲイ・セプテットなどのジャズバンドで歌い、1950年頃から日本ビクターでレコーディングを開始した。

「スイングジャーナル誌」の女性ヴォーカル人気投票では、1951年から1953年まで1位を独占するほどの人気ぶりだった。また、『青春ジャズ娘』(1953年)、『ジャズ・オン・パレード1954年 東京シンデレラ娘』(1954年)などの和製ミュージカル映画にも出演。

1955年、26歳の時、外国タレントの呼び屋としてアメリカ芸能界と縁のあった永島の助言で、音楽の勉強のため渡米を決意。その年に出場したアメリカのタレントスカウト番組でチャンスを掴み、CBSテレビ『アーサー・ゴドフリー・ショウ』に着物姿で出演して英語の曲を歌い大きな注目を集める。同年、マーキュリーレコードから「How Deep Is the Ocean」という曲で米国デビューを果たす。
翌1956年に発表したアルバム『Miyoshi Sings For Arthur Godfrey』では、英語と日本語を交えて日米両国の楽曲を歌っている。1957年、アメリカでも歌手として名前を知られるようになり、マーロン・ブランド主演の映画『サヨナラ』でハリウッドデビューを果たす。

この映画の演技でアカデミー助演女優賞を受賞。当時、東洋人の俳優としては初のアカデミー賞受賞であり、また助演女優賞をアメリカとイギリス以外の俳優が受賞したのも初めてのことだった。

その後、1958年にブロードウェイ・ミュージカル『The Flower Drum Song』で主演を務め、トニー賞のミュージカル部門最優秀女優賞にノミネートされる。

その他の映画出演作品には『嬉し泣き』(1961年)、『戦略泥棒作戦』(1962年)、『忘れえぬ慕情』(1962年)などがある。また、1969年から3年間に渡って放映されたテレビドラマ『エディの素敵なパパ』にもレギュラー出演している。

プライベートでは、テレビディレクターのフレドリック・オピーと結婚したが、長くは続かず離婚。1968年にドキュメンタリー監督のランドール・フッドと再婚。

オスカー女優として、ハリウッドで華々しい成功をおさめたナンシー梅木だったが、1972年(当時42歳)に突如女優業を引退。1976年、夫のランドールが死去。

以降、ショービジネスの世界とは距離を置いた。その姿勢は徹底しており、仕事関係の友人・知人からの前から消息を絶ち、ショービジネスに身を置いていた時代の思い出の品を処分したという。晩年はミズーリ州で息子一家の近くで暮らしたそうだ。

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