それは1967年の1月末、まだブライアン・メイがクイーンのメンバーと出会う前のことだ。
ロンドンのインペリアル・カレッジに通う学生だったブライアンは、地元で知り合った仲間たちと「1984」というバンドを組んでいた(バンド名はジョージ・オーウェルの同名小説から取って付けられたものだ)。
当時からギターの腕前は卓越しており、その実力は知人の誰もが認めるところだった。
ブライアンがギターを始めたのは7歳のとき。
父親のハロルドはウクレレが趣味だったのだが、試しに6歳だったブライアンに教えてみると、驚くほど上達が早かったという。
しかしブライアンがウクレレよりもギターに興味を持ったため、7歳の誕生日に小さなアコースティックのギターを買い与えたという次第だ。
ブライアンはエヴァリー・ブラザーズといったアコースティックのデュオから、バディ・ホリーのようなロックンロール、さらにはコニー・フランシスといった女性シンガーなど、ジャンルにこだわらず幅広い音楽を好んでいた(ただし生粋のブルースにはそこまで惹かれなかったようだ)。
そうして色々な音楽に触れていれば、やがてエレキギターを欲しいと思うのは当然のことだった。
しかしブライアンの家庭には、エレキギターという高額なものを買えるような余裕はなかった。
そこでブライアンと父のハロルドは、2人でエレキギターを作るという行動に出る。
友人のエレキギターを研究し、譲り受けた古い暖炉の木を利用し、およそ2年もの月日を費やして、自身が理想とするギターを完成させたのである。
このギターはのちに「レッド・スペシャル」などの通称で知られるようになり、クイーンの楽曲でも使用されることとなる。
エレキギターを自作したというエピソードだけでも、ブライアンがギターに注いだ情熱と労力が並外れていたことが伝わってくる。それだけに、ブライアンはギタリストとしての自分に、絶対的な自信を持っていた。
そんなブライアンの自信を、完膚なきまでに打ち砕いたのがジミ・ヘンドリックスだ。
1966年の秋にアメリカから海を渡ってロンドンへとやってくると、「とんでもないギタリストがいる」という噂はすぐに広まった。
12月には人気テレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』への出演を果たしている。
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噂のジミ・ヘンドリックスを生で観てみようと、ブライアンがライブへと足を運んだのは1967年の1月末だった。
「僕は自分のことをとてつもなくうまいと思っていたけれど、サヴィル・シアターで彼を見た時、自分の目が信じられなかった。
強い嫉妬、最初に込み上げてきたのがそれだ」
強い嫉妬、それは間もなくして羨望、目標へと変わっていった。
ブライアンのバンド「1984」は、ジミのステージを観てからわずか2ヶ月後の3月末に、「パープル・ヘイズ」のカヴァーを録音している。
そして5月には、1000ポンド(当時の日本円でおそらく100万前後)の大金を用意し、大学のイベントにジミ・ヘンドリックスを呼んでいる。
観客席の中央前方を陣取り、間近でジミのプレイを見たブライアンは、そのときの印象をこう語っている。
「そこにいるのはただの男で、あるのはただのギターとアンプ。
でも音が鳴ると、まるで地震が起きたみたいなんだ」
ジミ・ヘンドリックスに衝撃、影響を受けたミュージシャンは数知れないが、着目するポイントはテクニックであったり独創性、パフォーマンス、カリスマ性、あるいはその全てだったりと、人によって様々だ。
そしてブライアンの場合は、アンプから放たれる圧倒的なエネルギーが特に印象的だったようだ。
この年の12月にはクリスマス・ショーでジミと同じステージに上がっているが、その時にもやはり同じような感想を述べている。
「ヘンドリックスがプラグを差し込んだのと同じスタック・アンプに僕もプラグを差したんだ。彼がそいつを通して演奏すると世界中に響き渡るような音が出た。でも僕の時は、トランジスタラジオみたいに聞こえたよ」
(ブライアンの発言は大学のイベントに関してはLouder、それ以外は『クイーン 華麗なる世界』からの引用です)