セックス・ピストルズが解散した1978年。イギリスにおけるパンク・ムーヴメントは、シーンを牽引していたバンドを失ったことにより、その勢いを失いつつあった。
そんなときに脱パンクの先駆けとして登場したバンドのひとつが、マンチェスターで結成されたジョイ・ディヴィジョンだ。
彼らが活動を開始したのは1976年。
ピストルズのライヴに刺激を受けたバーナード・サムナーとピーター・フックが、自分たちもバンドをやろうとメンバーを探し始めたところから彼らの物語ははじまった。
そして地元のレコード屋に貼ってあったメンバー募集の紙を見たイアン・カーティスがボーカルとして加わり、バンドは本格的に動き出す。
当初はスティフ・キトゥンズという名前だったが、初めてのライヴの直前にワルシャワと改名する。これはデヴィッド・ボウイの曲名から取って付けたものだ。
地元マンチェスターを中心にして活動を続けていく中で、彼らは独自のサウンドを築いていった。
テンポは他のパンクバンドよりも遅く、ギターがコードとリズムを打ち出し、そこにメロディアスなベースが加わる。
歌詞は内省的で、それほど大きくシャウトすることもない。ガレージバンド的な粗さこそあれど、彼らの音楽はパンクの主流と一線を画していた。
グループ名がジョイ・ディヴィジョンとなったのは1978年初頭のことだ。同じワルシャワという名前のバンドがいたことがきっかけだった。
1978年6月には自主制作によるEP「アン・イデアル・フォー・リビング」を発表する。
そんな彼らの音楽に興味を持ったのが、マンチェスターに本拠地を構える地方テレビ、グラナダTVの番組で司会をしていたトニー・ウィリアムスだ。
彼はセックス・ピストルズをいち早くテレビ出演させた人物であり、1978年にはインディーズ・レーベル、ファクトリー・レコードを設立している。
ジョイ・ディヴィジョンのライヴを見て、新しい音楽の可能性を見出したトニーはバンドにコンタクトを取ったが、イアンから返ってきたのは、番組にバンドを呼ばないことへの抗議を含んだ罵倒の手紙だった。しかしトニーはこの手紙に腹を立てるどころか、彼らを番組に出演させることを約束したのである。
地方局の音楽番組とはいえ、自主制作レコード1枚のみの無名なバンド、しかも流行りのサウンドとはいえないバンドを番組に出演させるというのは、思い切った決断だった。
しかし彼らには、次の時代のサウンドを決定づけることができるだけの独特な魅力があった。
番組出演後、トニーのファクトリー・レコードと契約を交わしたジョイ・ディヴィジョンは、音楽メディアでも取り上げられるようになった。1979年1月には大手音楽メディア「NME」の表紙を飾るまでに至る。
そして、その年の6月15日にリリースされた1stアルバム『アンノウン・プレジャーズ』は各音楽メディアで賞賛され、インディーズチャートで2位にまで登りつめた。
ジョイ・ディヴィジョンは、パンクに変わる新しい音楽を探し求める人たちにとっての、一つの答えとなったのだ。
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