この歌は、財津和夫(当時26歳)が在籍したチューリップが1974年の6月5日にリリースした楽曲である。
前年に大ヒットを記録した「心の旅」からアイドル路線を走っていた彼らが、自分達が目指していた本来の音楽(ビートルズからの影響を受けた良質なポップス)に路線修正するために発表したものだった。
リリースから40年以上が経った今も結婚式などで歌われることも多いが、その歌詞の内容は別れの歌とも始まりの歌ともとれる。
またこの曲には副題がありJASRACのデータベースによれば「I’ll always remember you」とされている。
財津によると「歌詞はビートルズの“The Long And Winding Road”をモチーフにした。」としている。
若者から支持を中心に人気絶頂にあった彼らが、あえて“大人向き”のバラードをリリースするにあたって…舞台裏では財津とレコード会社との間で衝突もあっという。
後に「チューリップの運命を変えた名曲」と言われるこの歌は、一体どんな経緯でリリースされたのだろう?
「この曲はシングル向きではないから、やめたほうがいい。」
当時この歌をシングル曲に選んだ財津は、所属していたレコード会社(東芝)の制作スタッフのほぼ全員から猛反対を受けたという。
唯一賛成したのは、担当ディレクターの新田和長だけだった。
そんな“風当たりの強い”状況を押し切ってでも財津と新田には「このタイミングで出したい!」」という確信があったという。
新田は当時の気持ちをこんな風に語っている。
「売れ線のポップナンバーばかりじゃいつか必ず飽きられるし、いつまでたってもファンの年齢層も上がらない。彼らは短命のアイドルグループで終わる存在ではないと思ってました。財津君と相談して“できるだけチューリップで長くやりたい”という意思を確認して、この曲のリリースを決めました。」
財津自身もあるインタビューでこんな言葉を残している。
「僕なりの“読み”がありました。コンサートを主体として、できるだけチューリップというバンドを持続させるためにはどうしても“青春の影”のような楽曲が必要だと判断したんです。」
ある意味レコード会社の“予想通り”の結果となり…発売当初「青春の影」は、それまでのシングル曲に比べて売り上げが伸びなかった。
財津は冗談まじりにこう述懐している。
「チューリップはあの曲を出したことによって、ヒットチャートでは二流バンドになってしまった。」
この歌がリリースされた頃「学生街の喫茶店」などを大ヒットさせて、チューリップと同じく人気絶頂にあったフォークグループがいた。
彼らの名はガロ。
チューリップが「青春の影」をリリースした時、ガロは次々とヒットを狙って“売れ線”の曲を発表する。
当時、ロックバンドやフォークグループはテレビ出演しないという流れが一般的であったが、ガロのメンバーは歌番組はもとより『スターものまね大合戦』や芸能人バレーボール大会等のバラエティ番組にも出演しモノマネを披露するなど、アイドルさながらの活動をしていた。
しかし、そんな急速な“売れっ子状況”は人気の急降下につながり…メンバー間の音楽的な意見の相違も激しくなり、ガロは1976年3月に神田共立講堂の解散コンサートをもって活動に終止符を打つ。
一方、チューリップはその後10年以上も“第一線”で活躍しつづけ、音楽ファンからも良質な楽曲を歌うアーティストとして認識されるようになる。
まだ26歳だった財津がリリースタイミングにこだわったこの歌は、チューリップの運命を大きく変える一曲となったのだ。
<引用元・参考文献『フォーク名曲事典300曲』/富澤一誠(ヤマハミュージックメディア)>
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