「髪を伸ばしたのは兄貴の命令だったんです」
山崎ハコがまだ中学生だった頃の話。1970年代の初頭、少女は故郷の日田(大分県日田市)で家族と共に暮していた。当時、彼女の兄はグループサウンズやベンチャーズとかイギリスのバンド、クリームなどに夢中だった。兄はゴールデン・カップスの「長い髪の少女」という曲が好きで、妹のハコに向かっていきなりこんなことを言ってきた。
「お前は髪を伸ばせ!髪の長い女になれ!」
彼女はそれを別に嫌とは思わずに「うん、わかった」と言って髪を伸ばし始めた。それが、音楽の世界へと足を踏み入れるきっかけになった。
兄の影響もあって、当時彼女が“命の次に大切だった”と言うレコードは、ウッドストックフェスティバルのライブ盤と中津川フォークジャンボリーのライブ盤だったという。
その話を兄にしたら「じゃあお前、家が火事になって、どちらか一つしか持ち出せないとしたらどっちのLPを選ぶ?」と訊かれた。さんざん考えて出した答えは「ウッドストック!」だった。
ギターを始めたのも兄の影響だった。兄はロック信者だったので、当然ギターはエレキだった。兄にとってギターは宝物だったので、普段はなかなか触らせてくれない。
少女は兄がいないときにこっそりギターを借りて練習をした。練習といっても、当時人気のあった雑誌『明星』に載っていた簡単なコードを3つか4つ覚えてヒット曲を弾くくらいだった。
アコースティックギターに最初に触れたのは、中学校の教室だった。学校の音楽室に1本だけ教材用のギターが置いてあって、先生も含めて誰も弾ける人がいなく“飾り物”状態だった。
ある日、先生が「誰かギターを弾けんのか?」と訊いてきたので、迷うことなく「はい!」と手をあげた。その日から、学校公認でギターを弾けるようになったのだ。
「勉強じゃないから練習するのが面白くてね(笑)。昼休みや放課後にも音楽室でギターを弾いてました」
「兄貴のエレキで覚えた3つか4つのコードでは、みんなからのリクエストのCMソングや校歌などは弾けなくて…色々な本を読みあさってコードを覚えました。面倒くさいとか、辛いとかはまったく思いませんでしたね。逆に新たしいコードを覚えるのが楽しくて楽しくて」
当時、父親は日田で農業をやりながら郵便配達をしていて、母親は小料理屋を営んでいた。しかし、店の経営があまり思わしくなくなって…母親は、いっそのこと全部やめて、どこかへ引っ越して心機一転やり直したいと思っていた。跡継ぎだった父親は、家を捨てるわけにはいかない。
「田舎って近所の口がうるさいでしょ?山崎んちは商売に失敗したとか色々言われる。だけど私両親に言ったんですよ。『二人でしがらみのない都会へ出た方がいいんじゃない?』って。当時、私は中学生。いま考えると、ずいぶん生意気なことを言う中学生でしたね(笑)」
ちょうどその当時、兄が横浜で地下鉄工事のバイトをしていて、かなりのお金になっていた。ある日、家の事情を聞いた兄から両親に連絡が入る。
「横浜がいいよ。ちょうど住み込みの寮で料理を作る仕事があるから、二人で来ればいいよ。母ちゃん調理師だし」
程なくして、両親は横浜に旅立って行った。少女は祖母と犬と一緒に日田の実家に残って暮した。そして中学校卒業後、両親の待つ横浜へ。
1975年、18歳になった山崎ハコは横浜学園高等学校在学中にコンテストへの出場をきっかけに、アルバム『飛・び・ま・す』でレコードデビューを果たす。
150センチあるかないかの小柄で痩せた体からは想像もできないパワフルな歌唱と表現力、そして鋭く社会をえぐるような歌詞で、デビュー当時は“中島みゆきのライバル”とも言われた。
そんな山崎はデビュー当時、雑誌のインタビュー等で一切喋らなかった。それは本人の意志ではなく、彼女を“伝説のフォーク歌手”として売り出そうとした事務所の考えだった。
「ハコさんに聞いているんですけど…。」
インタビュアーにいつもそう言われた。すると事務所の社長がこう返す。
「ハコは喋りませんから。喋るのが嫌いな子ですから」
もちろん喋らせてくれと言いたいこともあった。とくにそれを感じたのは、社長が「ハコは人間嫌いですから」と言ったときだった。心の中でこう叫んだ。
「私は人間嫌いじゃない!」
華々しくデビューした姿をテレビで観た地元の友達や親戚は、皆口をそろえてこう言ったという。
「暗いとか“人間嫌い”とか言われて、どげんした?」「あんなに明るくていい子だったのに…ハコちゃん、都会で体悪うなったん?」
それでも事務所に従って喋ろうとしなかった。それは、自身の“歌”を背負っているという自負だった。歌とのギャップは作らない方がいいと思っていたのだ。社長の要求はさらに厳しくなっていった。すでに洗脳され、言いなりだったという。
「家を捨て、家族や親戚とは絶縁したことになっているんだ。親類縁者とはつきあうな。音信不通にしろ」
そう言われて電話を解約した。
「アーティストというのは、お金を持つと駄目になる。天才じゃなくなるんだ。それでもいいのか?」
ギャラはすべて社長に管理してもらった。
「彼氏ができると駄目になる。歌が死ぬ。お前から歌を失くしたら何が残る?歌を殺してもいいのか?」
歌が死ぬのだけは嫌だった。だから、誰とも付き合わなかった。
─言われるがままに20年以上やってきた。ところが1998年のある日突然、事務所は倒産し、社長は姿をくらました。社長が管理してくれていたはずのギャラはどこにもなかった。
人間不信…だが、山崎は“歌うこと”だけはやめなかった。“歌”を背負っているから。そして、歌がなければ生きていけなかったから。
「デビューして20年経ったくらいまでは、周りのことなんて何ひとつ知らない売れないアイドルみたいでした(笑)。それから所属事務所が立ち行かなくなって以降の10年くらいは下積み生活が一気に来た感じですね。それまではセールス的な浮き沈みがあっても、立場的にまずいとかはなかったんですよ。事務所さえあれば、ボロくても家があるようなものだから。それが、雨風を凌げる家を追い出されてのっぱらにひとりぽつんと立たされた。信念さえあれば、歌を唄い続けることはできると思うんですよ。でも、プロの歌手として唄い続けるための活動…つまりマネージャーがやっていた売り込みの仕事をやらないとプロとしては成立しないんですね。だから、裏方の仕事でも何から何まで全部自分でやるしかなかったんです」
40代の頃、一時期ホームレスにも近い極貧生活をしていたこともあった。マネージメント、所属事務所、営業活動などは全て自分で行い、生活のためにアルバイトで生計を立てた。
しかし、バイト先の有線放送でたまたま自分の曲がかかったときに「自分は歌わなくてはいけない」と思い、本格的な歌手復帰を決意する。
そして2008年、新曲「BEETLE」をリリースし51歳にして完全復帰を果たす。
2010年には、映画『ヘヴンズストーリー』(4時間38分の大作)にてスクリーンデビューもし、現在は音楽活動と平行して女優としても活躍している。
<引用元・参考文献『フォークソング―されどわれらが日々』文藝春秋>



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