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ジョン・コルトレーンの最高傑作〜モダンジャズの巨人が到達した“至上の愛”とは?

2018.07.17

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モダンジャズ界サックスの巨人、ジョン・コルトレーン。
1950年代の終わりころから一気に花を咲かせて疾風のごとく通り過ぎていってしまった男である。
ジャズファンの中では“晩成型の巨人”とも言われた彼。
もう一人の巨人、マイルス・デイヴィスとは良く知られている通り同年齢だった。
1955年から61年まで、この二人の巨人は同じバンド(第一期マイルス・デイヴィス・クインテット)でプレイをしていた時期もあった。
こうして、マイルス・デイヴィスとは50年代後半の“モード時代”を共にするが、1967年に他界するまでの彼は、まるで自身の夭折を予期していたかのような煌めきに満ちたソロ名義の作品を残している。

本名ジョン・ウィリアム・コルトレーン。
1926年9月23日、ノースカロライナ州にあるハムレットという街で生まれる。
父ジョン・ロバート・コルトレーンは服の仕立て兼クリーニング業を営み、音楽好きでバイオリンとウクレレを趣味で弾いていた。
母アリス・ガートルード・ブレア(旧姓)は歌が上手く、オペラ歌手を志望したこともあり、リヴィングストン・カレッジでは音楽と教育学を学んでいたという。
そんな二人の祖父はどちらもアフリカン・メソジスト・エピスコパル・シオン(AMEZ)教会の牧師だった。
彼が誕生した年の終わり頃、一家はノース・カロライナ州、ハイポイントに移住。
母方の祖父ウィリアム・W・ブレア牧師宅での同居が始まった。
彼はこの田舎町で17歳まで多感な青春時代を過ごしている。
この辺りは、ワシントンDCとアトランタのほぼ中間に位置する黒人の多い地域で“黒人専用の教会”がたくさんあるエリアでもある。
13歳で父を亡くし、16歳の時にハイスクールバンドでクラリネットに触れる。
卒業と同時に友人らと共にフィラデルフィアで暮し始めた彼に、母親は17歳の誕生祝いとして中古のアルトサックスをプレゼントする。
彼の“ジャズ人生”は、ここからスタートを切る。
音楽学校、キャンベル・スープ本社での仕事、海軍での水兵、ミュージシャンとしての長い下積み生活、薬物中毒…そんな二十代を経て彼がようやく認められるようになったのは1955年以降、30歳近くなってマイルス・デイヴィスのバンドに加わってからである。
そして1960年、彼は満を持して自身の本格的カルテットを発足させる。
同年、アトランティックと契約し『Giant Steps』、『Coltrane Jazz』、『Coltrane Plays the Blues』、『Coltrane’s Sound』などの名盤を相次いで出したが、中でも『My Favorite Things』は大好評だった。


ソプラノサックスの演奏でも、彼はパイオニア的存在だった。
従来モダンジャズではクリーンで透明な音が出にくいなどの理由で、ほとんど使用されていなかった楽器だったが、彼によってジャズ特有のブルーノートやモード奏法に効果的であることが実証される。
1961年以降、発足したばかりの新興レーベル“インパルス!”とも契約。
この頃から彼はインドやアフリカ音楽などの影響を受け、民族音楽をベースとした即興演奏を繰り広げる。
同時に、繊細かつ力強い表現によって内面的精神性が深めてゆくこととなる。
こうした流れの到達点が、1965年の『A Love Supreme(至上の愛)』だった。
後にこの作品は“ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500”で47位にランクインし、ジャズアルバムとしてはマイルス・デイヴィスの名盤『Kind of Blue』の12位に次ぐ“伝説のアルバム”となった。

ジョン・コルトレーン『A Love Supreme(至上の愛)』

ジョン・コルトレーン『A Love Supreme(至上の愛)』

(1965/Impulse! Records)


クレジットには、ピアノのマッコイ・タイナー、ベースのジミー・ギャリソン、ドラムスのエルヴィン・ジョーンズ、そしてテナーサックスの彼(ジョン・コルトレーン)が名を連ねており、これ以上ない“黄金のクォルテット”と呼ばれた編成だった。
その内容は、彼が神に捧げた4部構成による組曲アルバムとなっており、作曲にあたってカバラ(ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想)の書物の影響を受けたという。
全4楽章から成るこの作品に収録されたそれぞれの楽章には、「承認」「決意」「追求」「賛美」という題が付けられた。


承認(Acknowledgement)
決意(Resolution)
追求(Pursuance)
賛美(Psalm)



彼がこの作品で表現したかったのは “キリストへの愛、子に対する親の愛、恋人への愛”であり、全知全能の神に対する感謝と祝福だった。
熱気の中に憑かれた呪文のような「承認」、ブルージーなムードと内部から突き上げてくる強いインパクトを感じさせる「決意」と「追求」、そして絶対神に対して感謝と祝福を捧げる荘厳でスピリチュアルな最終章「賛美」に至る長大な表現は、文字通り彼自身の頂点を極めるアルバムとなった。
アメリカのみならず世界各国で賞賛され「ホール・オブ・フェイム」「レコード・オブ・ザ・イヤー」「ジャズマン・オブ・ザ・イヤー」など、ほとんどの賞を総なめにした。
また、1970年代末には売り上げ総数100万枚を突破するという、当時のジャズアルバムでは前代未聞のセールスを記録する。
彼はこの作品を境に、50年代後半以来追求してきたモード奏法から離れ、急速にフリージャズへと方向転換していく。
しかし、その2年後の1967年7月17日…志半ばにして肝臓がんのため死去。
40歳の若さだった。

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