モダンジャズ界サックスの巨人、ジョン・コルトレーン。1950年代の終わりころから一気に花を咲かせて、疾風のごとく通り過ぎていってしまった男。
もう一人の巨人、マイルス・デイヴィスとは、よく知られている通り同年齢だった。マイルスとは29歳の頃から約5〜6年にわたって、同じバンド(第一期マイルス・デイヴィス・クインテット)でプレイをしていた時期もあった。
ジャズファンの中では“晩成型の巨人”とも言われたコルトレーンだったが、マイルスと組む少し前の時期、27歳前後にはどんな活動をしていたのだろう?
──それは彼のキャリアにおいて、まさに“下積みの時代”だった。
高校卒業と同時に、友人らと共にフィラデルフィアで暮し始めると、母親から誕生祝いとして中古のアルトサックスをプレゼントしてもらう。コルトレーンの“ジャズ人生”はここから始まった。
音楽学校での本格的な勉強、キャンベルスープ本社での仕事、兵役経験、そして薬物とアルコール中毒。20代はプレイヤーとしもまだ無名で、生き方を含め、自分の演奏スタイルを探しあぐねていた。
23歳を迎えた1949年の終り頃から約18ヶ月の間、モダンジャズの原型となるスタイル、“ビバップ”を築いた功労者の一人ディジー・ガレスピーの楽団に参加していたが、後にその頃のことをこんな風に語っている。
「ディズのバンドにいる時、私がやるべき事が“自らを表現する事”だという事実に気がついてなかった。同僚のミュージシャンに負けたくなくて、決まりきったフレーズを吹き、流行っている曲を覚えることしか考えてなかった」
当時のディジー・ガレスピーは、自分が率いるビッグバンドの経済的に成功させるために、コマーシャルな曲を中心にレパートリーを組んでいたのだ。それはプレイヤーにとって譜面どおりに演奏するだけで、ほとんどインプロヴィゼーションの機会がないことを意味していた。コルトレーンにとって、そこでの仕事は音楽的飛躍には繋がらず、キャリアの向上にも結びつかなかった。
「長いこと手探り状態が続いていたんだ。新しいことをやろうとしてはいたけれど、なかなか踏み切れなかった」
ディジー・ガレスピーのもとから離れ、ジャズからR&Bへ、またジャズへと揺れ動き、麻薬からアルコールへ、再び麻薬へと、まるでシーソーのような“行きつ戻りつ”の生活を繰り返していた。
1953年、27歳になったコルトレーンは、フィラデルフィア周辺でフリーランスの演奏家として色々なバンドに参加するようになる。その頃、アメリカでは新しい音楽の風が吹き始める。
黒人向けの音楽では、新たに登場したドゥーワップ・グループやファッツ・ドミノやリトル・リチャードといったピアノがリードするブギウギ・バンド、チャック・ベリーやボ・ディドリーといったブルースの流れを汲んだR&Rが人気を集めていた。白人の音楽ファンにもR&Bやブルースが浸透し始めて、あのエルヴィス・プレスリーの登場が目前に迫っていた頃である。
1954年の初頭、「スウィング・ジャズの至宝」と呼ばれたアルトサックス奏者、ジョニー・ホッジスのバンドに参加する。ジョニー・ホッジスは、コルトレーンが「私にとってのアイドルだ」と公言していた人物である。
「ジョニー・ホッジスは私が音楽を始めて最初に憧れたスターなんだ! 実に楽しい仕事だったよ! 演奏する曲はどれも面白かった。見かけ倒しの曲などまったくなかった。みんな中身がありスウィングしていたよ!」
それはコルトレーンがバック演奏者として過ごした時期において、最も充実した日々になった。当時の流行に左右されない、ジャズの伝統に根ざした一流ミュージシャンとのツアー経験を、こんな風に語っている。
「古い時代から活躍してきた本物のミュージシャンから、貴重な教えを受けたんだ」
しかし、ここでも麻薬常用がバンドの規律を乱すとして、解雇されることとなる。その翌年、マイルス・デイヴィスのバンドに加わることによって、ようやくジャズメンとしての頭角を現し始めたが、まだ薬物や酒に依存する日々は続いていた。
<参考文献『ジョン・コルトレーン“至上の愛”の真実』アシュリー・カーン著/川嶋文丸訳>
Best of Miles Davis & John Coltrane
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