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音楽史のターニングポイント「ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか」の論争

2019.03.18

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今から40数年ほども昔のことになるが、ある座談会をきっかけにして、”日本語のロック”について真剣な論争が起こった。

「ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか」

今になって振り返れば、その論争は歴史の必然だったとわかる。

タウン誌の先駆けとなった「新宿プレイマップ」1970年10月号に掲載されたその座談会は、「喧論戦シリーズ②ニューロック」と題されていた。

新宿プレイマップ10月号


いわゆる”日本語のロック論争”と言われたのは1971年になってからで、ロック批評を標榜する雑誌「ニューミュージック・マガジン」に発表の場を移した後のことになる。
しかし発端になった「新宿プレイマップ」の誌面からは、実に生真面目な話し合いだったという空気感が伝わってくる。

座談会に出席したのは内田裕也、鈴木ヒロミツ、大滝詠一という3人のバンド・マンと、これを企画した編集者の中山久民、1950年代後半から音楽ジャーナリズムで論戦を張っていた気鋭のジャズ評論家が相倉久人が司会を務めていた。

時代背景を簡単に説明すると1966年のビートルズの来日公演後、”ロック”に目覚めたバンドが続々と誕生した。
それがグループ・サウンズ、すなわちGSとしてブームを巻き起こしたものの、人気が出るにつれて急速に歌謡曲化してしまったことから、ほんものの“ロック”を目指すバンドがニューロックという言葉とともに登場してきた。

GSのアイドル路線を目指して結成されたフローラルがニューロック路線を選んで、腕の立つバンド・メンバーに細野晴臣と松本隆を加入させてエイプリル・フールとなり、英語詞によるオリジナル・アルバムを制作したがその典型だった。

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ジャズの研究者としれ立場からジャズが生まれる現場に立ち会うことで、時代状況を伝えていく発信者になっていた相倉久人は、1969年を境にジャズからニューロックへと関心の方向を変えつつあった。

「ニューロックが登場した時点が面白いと思うんだ。その前に反戦フォークの流行った時期があった。でも、そういう言葉による伝達ではもうダメなんだ。戦争反対という言葉にメロディーをくっつけただけで、考えを理解させるというオプチミズムが崩壊した後でニューロックが出てきた」


ロカビリー時代に歌手としてデビューした内田裕也はその後、裏方にまわってGSの初期にはザ・タイガースを見出したが、”ロック”による世界進出を目指してフラワー・トラベリン・バンドを結成した。

「前に日本語でやった時があるんですよ。やっぱり歌う方としては、”のらない”というんですよね。ボクは夢が大きいのかもしれないけど、独立したときからロックは世界にコミュニケート出来るものと思っていたからエキスパートを狙っていた」と語った内田裕也は、自らの体験から英語でうたうという方法を選んだという。
そして歌唱力に自信があるジョー山中をヴォーカルに擁して、当時は海外展開の道を歩んでアメリカ進出も視野に入れていた。

フラワー・トラベリン・バンドはカナダでのライブで評価を得て、1971年には名門アトランティック・レコードとの契約を果たしている。
セカンド・アルバム『SATORI』をカナダとアメリカ、日本でリリースされた。


GSにおける個性派バンドのひとつだったモップスは、ゴールデン・カップスと並んで有数のブルースロックのバンドだと自負していた。
ヴォーカルの鈴木ヒロミツは過去の体験から、この時はこのように発言していた。

そりゃ日本語でやれれば日本語の方がいいさ、でも現実に日本語じゃ波にのらないね。日本語って母音が多いんだよな、だから”オレはオマエが好きなんだ”なんて叫んでも”何言ってる”なんてシラケちゃう(笑)もっと演歌みたいに歌えば感じるんだろうけどロックで日本語を怒鳴っても”アイツバカじゃねぇか”っていわれるのがオチだしね。


モップス1970

3人のバンドマンのなかで最も若く、したがって経験も浅かった大滝詠一だが、先輩たちとの間に認識の上では大きな相違があったわけではない。
ただ困難を承知のうえで、意識的に日本語に取り組んで新しい一歩を踏み出したところだった。

ボクはついこの間までGSみたいな事をやってたけど、去年の夏くらいから日本のロックについて考えているんです。つまり日本の中に外国のロックを持ち込んでも何となく馴染めないという原因は、言葉の問題が一つにはあると思うわけです。そこで日本語でロックをやってみたわけです。こんどハッピーエンドというバンドを作って(8月)5日にレコードが出るんですけど 、何かそういう試みをみんながやってみたらと思いますね。

ボクだって、ロックをやるのに日本という国は向いていないと思う。だから、ロックを全世界的にしようという事で始めるんだったらアメリカでもどこでも、ロックが日常生活の中に入り込んでいる所へ行けばいい。全世界的にやるんならその方が早いんじゃないですか。でも、日本でやるというのなら、日本の聴衆を相手にしなくちゃならないわけで、そこに日本語という問題が出てくるんです。


「海外進出のためにもロックは英語で歌うべき」と意気込んでいた内田裕也もこうした話を受けて、この日はこんなエールを送っていた。

フォークと違ってロックはメッセージじゃないし、言葉で〈戦争反対、愛こそ全て〉と云うんじゃなくて、若い連中がいて、そこにロックがあれば、何か判りあっちゃうと思うし、言葉は重要だと思うけど、ボクはそんなにこだわらない。でも大滝君達が日本語でやるのなら成功してほしいと思う。


はっぴいえんど

司会の相倉久人はこの座談会の8年前、ジャズについて次のような文章を発表している。

真の創造が、伝統の超克によってのみ達成されるものである以上、伝統的に”ジャズの伝統”を持たない日本で、本当の意味でのジャズを創造することは、予想以上に至難の技である。すくなくとも、現在の日本には、真の独創性を誇り得るようなジャズはない。


ジャズという言葉をロックに置き換えれば、そのまま1970年の時代状況と重なっていた。

日本のジャズが生みの苦しみや悩みを味わっている現場に立ち会い、ジャズとして言葉を語ることでシーンと併走してきた相倉久人は、この座談会を境にして真に創造する主体となろうとするロック・ミュージシャンたちに、日本の音楽シーンの変革を期待するようになっていく。

ロックというスタイルにこだわるのではなく、一人ひとりの内なるロックを追求することを支持したのだ。

雑誌「ニューミュージックマガジン」誌上で1970年4月号に発表された「日本のロック賞」で、上位に選ばれたのはエイプリル・フールを除いて、いずれも日本語での表現に挑んだアーティストのアルバムだった。

1位 『私を断罪せよ』 岡林信康
2位 『エイプリル・フール』 エイプリル・フール
3位 『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』 早川義夫
4位 『ぼくのそばにおいでよ』加藤和彦
5位 『サリー&シロー』 岸部おさみ、岸部サリー

そして翌年の「日本のロック賞」で1位に選出されたのが、はっぴいえんどのファースト・アルバム『はっぴいえんど』だった。


伝統を持たない日本で独創性を武器に新しい伝統を生み出すところから、はっぴいえんどの周辺の音楽人脈が形成されていった。

「ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか」について、その後の音楽シーンの方向性が決まったという意味で、はっぴいえんどの登場は歴史のターニングポイントとなった。

その場に相倉久人が居合わせたのもまた、歴史的な必然だったのかもしれない。  


(注)キャッチアップ画像の写真は、左から内田裕也氏、相倉久人氏、鈴木ヒロミツ氏です。なお本コラムは2015年7月18日に公開されました。

『されどスウィング -相倉久人自選集』

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(青土社)

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