クレージーキャッツのテレビ番組の構成作家だった青島幸男は、植木等が歌ってヒットした一連のクレージー・ソングのほとんど全てを作詞しているが、著書「わかっちゃいるけど‥‥シャボン玉の頃」のなかで「ホンダラ行進曲」について、”実は一番好きな歌”だということを明かしている。
これは映画『ニッポン無責任時代』と『ニッポン無責任野郎』が公開されて大ヒットした翌年、クレージー旋風が日本中で巻き起こっていた1963年の春に発売されたハナ肇とクレージーキャッツにとっては5枚目のシングル。
A面が「いろいろ節」、B面が「ホンダラ行進曲」という組み合わせで、メイン・ヴォーカルはハナ肇、植木等、谷啓の3人だった。
1961年に「スーダラ節」がヒットしたおかげで、作詞した青島幸男は東芝レコードからヒット賞を受けた。その時は上位に「じんじろげ」の渡舟人、「上を向いて歩こう」の永六輔といった先輩がいた。
売り出し中の若手放送作家で勢いがあり、作詞家としてもやる気十分だった青島は、「よーし来年は一位におどり上がってやるぞ」と決意したという。
その結果、1962年にはクレージー・ソングの「ドント節」「五万節」「無責任一代男」「ハイそれまでョ」以外にも、加山雄三の「日本一の若大将」やスリーファンキーズの「ナカナカ見つからない」といったヒット曲が世に出た。
その結果、売上3万枚以上に与えられることになっていた東芝ヒット賞を総なめにしたのだが、青島はどこか虚しかったという。
思惑通りになったことが嬉しくないことはなかったが、ヒット賞がとてもチャチなものに思え、こんなもののために一年間苦心してきたのかと砂を噛む思いがしたのも事実だった。もうこの歌をかぎり流行歌の作詞はやめにしようと、最後の一曲のつもりで書いたのがこの「ホンダラ行進曲」だった。
青島幸男著「わかっちゃいるけど‥‥シャボン玉の頃」 (文春文庫)
歌詞を一見すると内容のないナンセンスなコミック・ソングにしか見えない。
だが、聴きながら笑い転げているうちに、どこかに人生の不条理と儚さを感じさせるものが漂ってくる。
作者の青島も「この歌には柄にもなく虚無的なムードがある」と述べていたし、実際にもこの時期は落ち込んでいたそうだ。
そしておよそ一年後に、クレージー・ソングの作詞をやめている。
自らがDJを務める番組「GO! GO!ナイアガラ」で毎年クレージーキャッツの特集をやっていた大瀧詠一が、クレージー・ソングのベストワンに推すのは「ホンダラ行進曲」だった。
作詞した青島幸男とのコンビでクレージー・ソングを生み出した作曲家、萩原哲晶との対談でそのことを話している。
大瀧:僕のクレイジーの中のベスト・ワンなんです。
他の作品もそうなんですけど、三拍子どころか十拍子も揃っているという。
萩原:お恥ずかしいなぁ、どうも。今になってみると。
大瀧:行進曲というのは、萩原さんの中ではお得意な。
萩原:得意というよりも、結局、僕らの世代ってのは行進曲と育っちゃっているわけです。
大瀧:なぜか行進させられたという(笑)。
萩原:ええ、ええ。本人がいやでも、頭こづかれて行進させられた。それが骨の髄まで沁み込んでいる。三つ子の魂百まで(笑)。ですから、行進曲のパターンていうのは、今でも全部覚えてますね。
大瀧:なるほどね。しかし、あの行進曲アレンジで、途中からコミカルになるっていうのは、他の人じゃできませんよ。
萩原哲晶の音楽を研究し尽くした大瀧は、自分のアルバムでも「ホンダラ行進曲」をカヴァーしようとしたことがあった。
アルバム『ナイアガラ・トライアングルVOL1』のときで、ライブで演ってみてレコード化しようと試みたのだ。
しかし、カヴァーするには作品が大きくて、とても手に負えなくて断念したという。
だが萩原のクレージー・ソングから学んだ音楽のエッセンスはその後、アルバム『ロング・バケーション』などで活かされることになった。
大瀧:「君は天然色」の間奏なんかは、まさに萩原哲晶アレンジなんですよ、あれは。
萩原:そうですか(笑)。いや信じられない。僕の生徒で、あれが好きで歌ってたのがいたの。僕は「この転換すばらしいよ。不思議だねぇ、やっぱり大滝さんて人のフィーリングっていうのはすごいねぇ」って言ってた(笑)。
音楽はこうして世代を超えて共有されることで、無形財産となって後世へと受け継がれていくのである。
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