青島幸男が書いた「スーダラ人生 クレージーキャッツ物語」によると、「スーダラ節」でレコードを出そうとしたときに、ふたつの選択肢があったという。
プロデューサーの渡邊晋との打ち合わせの席では当初、実力のあるミュージシャンが揃ったバンドなのだから常套的に”良い歌を作る”という案と、はなから割りきって”売れる歌を作る”という案が検討された。
そして選ばれたのは当然ながら、”売れる歌を作る”のほうだった。
青島流に言えば、「PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌」で、とにかく「バンバン売れる歌を作る」という方針が決まった。
その結果として誕生したのが、植木等のデビュー曲となった「スーダラ節」だった。
これが大ヒットしたことから、1961年の秋から翌年にかけて「ハナ肇とクレージーキャッツ」の人気が急上昇した。
破竹の勢いを得て12月に発売された第二弾シングルは勢いのある植木等が唄う「ドント節」と、1番から順にハナ肇と谷啓、植木等とリレー式に唄い継いでいく「五万節」のカップリングになった。
ところが「五万節」の歌詞に問題があるとクレームがつき、植木等が唄う3番と6番の歌詞が民放連の自主規制にひっかかった。
作・編曲を担当したことでクレージー・ソングの立役者となった萩原哲晶によると、「原案が青島幸男から出て、それからみんなで適当にでっちあげたんですが、でっちあげて面白かったものが全部ボツになって」しまったという。
あらためてレコーディングが行われて、歌詞を変更したヴァージョンは翌年の1月20日に発売された。
だが毒気を抜かれたために、破茶目茶な面白さが抑えられて普通のコミックソングになった。
しかし反骨精神のかたまりだった青島幸男はそうした経緯に懲りるどころか、ますます過激さを打ち出して前進あるのみ、「PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌」を誕生させていく。
1962年7月20日発売の第3弾シングル「無責任一代男/ハイそれまでョ」、12月20日発売の「これが男の生きる道/ショボクレ人生」、1963年4月20日発売の「いろいろ節/ホンダラ行進曲」と、いずれもA面だけでなくB面までヒットしてクレージーキャッツの人気は不動なものになっていったのである。
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(このコラムは2016年5月27日に公開されたものの改訂版です)
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