1961年の「スーダラ節」から始まったヒット曲によって植木等ブームが到来し、クレージーキャッツが疾風怒濤の快進撃を始めた1962年、記念すべき映画『日本無責任時代』が製作された。
その主題歌として作られたのが「無責任一代男」である。
この時、主題歌に先行して映画の脚本を書いていたのは、東宝で企画部の社員として働いていた田波靖男だ。
植木等の唄った「スーダラ節」から受けたグータラなサラリーマンのやるせない心情と、どこかヤケッパチな響きがあることに強い共感を覚えた田波は、さっそくクレージーキャッツと植木等を想定した映画のシノプシスをまとめた。
それは自ら温めていたピカレスク・ロマン(悪漢小説)のオリジナル・ストーリー、会社のためとか仕事のためというサラリーマンのモラルを放棄し、自由に生きる無責任男が大暴れするという内容となった。
固定化した組織や観念、人情などに縛られているサラリーマンのうっぷんを、自由な無責任男の行動に託して晴らそうというのがストーリーの狙いだった。
(田波靖男著「映画が夢を語れたとき」より)
完成したシナリオを読んだ青島幸男は、プロデューサーの渡邊晋から「青ちゃん、どうだ。シナリオ読んだか」と訊かれて、こう答えた。
「ええ、読みましたよ。面白かったですよ。とっても……。今までの日本映画になかった面白さだ」(同上)
そしてシナリオに隠されていた田波の意図を見抜いていたのか、こんな一言を付け加えたのだった。
「アメリカのハードボイルド小説みたいなところが、とっても良かったなァ」(同上)
田波は学生時代からアメリカのハードボイルド小説が大好きで、ダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドなどを愛読していた。
そうしたハードボイルド・ヒーローの孤独と哲学を、植木等が演ずる主人公の行動規範に重ねていたのだ。
物語の骨格に用いたのはハメットの「血の収穫」であり、映画の全体がハードボイルド・ヒーローへのオマージュであった。
そんな意図に気づいた青島幸男が書いた「無責任一代男」も、単なる”バカ歌”にとどまらない作品になった。
歌詞には常識的な価値体系を破壊する生き方と、それを貫くための哲学が込められていたからである。
植木等が主演してクレイジーキャッツのメンバー全員が活躍する『ニッポン無責任時代』は、8月に公開されるとどこの映画館にも行列ができるほどの大ヒットを記録した。
当時は娯楽の王様が映画であり、テレビでいくら人気があるからといっても、コミックバンドが出演する低予算のB級プログラム・ピクチャーは、初めから興行的に期待されていなかった。
暑い盛りの8月に公開されたのも、観客がいちばん来ない時期だったからである。
ところが予想をうわまわるどころか、とてつもないヒットになったのだ。
「ハイそれまでよ」とのカップリングで発売されたレコードもヒットし、「無責任男」の植木等はいよいよ時代のヒーローとなり、「無責任」は流行語になって社会現象化していった。
当初に青島幸男が書いてきた歌詞のオチは、“馬鹿”というものだったが、作曲した萩原の提言によって“ご苦労さん”と改められたという。
こうして毒気の強すぎるところのある青島の歌詞に、ユーモラスな味が加えられたというのはソングライティングのチームらしいエピソードである
しかし都会派サラリーマン映画で定評があった東宝では、サラリーマン社会の秩序を破壊して成功を収めるという、アンチヒーローの部分が問題視された。
東宝で映画部門の責任者だった藤本真澄にとって、『ニッポン無責任時代』はテーマもだが、主人公のキャラクターも不健全で、非常識きわまりないものにうつった。
もしも事前に脚本を読んでいたら、製作をストップさせたはずだ。
しかし社内では誰も期待していない、低予算の音楽映画という認識だったので、ノーチェックだった。
だから思わぬ大ヒットが出て喜びながらも、担当プロデューサーを呼びつけて激怒したという。
それでも経営者としては当然の判断だが、植木等が主演する映画をただちにシリーズ化することを決めている。
そして続編の『ニッポン無責任野郎』とは別に、もっと東宝のカラーに合った作品の『日本一の色男』を製作し、渡辺プロダクションの渡辺晋と美佐夫妻を契約プロデューサーとして迎えることにしたのだ。
ここから映画でも、クレージーキャッツの快進撃が始まる。
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(本コラムは2017年9月8日に公開されました)
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