1960年代の後半から70年代にかけて、ラジオは若者たちにサブカルチャーを発見して紹介する役割を果たした。テレビは一家に一台くらいまで普及していたが、音楽に興味がある少年少女や若者たちはみんなトランジスタ・ラジオを聴いていた。
忌野清志郎が「トランジスタ・ラジオ」の歌詞に書いた通り、心のアンテナさえ感度が良ければ、小さなラジオは世界中からのメッセージをキャッチできたのだ。
アメリカ西海岸のベイエリアの南で歴史的なモンタレー・ポップ・フェスティバルが開催され、オーティス・レディングとジャニス・ジョプリンがスターダムを駆け上がったのは1967年の6月だった。
それから半年後、モンキーズの「デイ・ドリーム」が全米チャートの1位を快走していた12月10日、飛行機が墜落する事故にあって、オーティスが26歳の若さで亡くなったという衝撃的なニュースが飛び込んできた。
ちょうどその時期に関西のラジオ局を経由して、あっという間に日本中へ広まったのが、交通事故で死んだ男が天国を追い出されて戻ってくる”変な歌”、ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の「帰って来たヨッパライ」だった。
京都の大学生だった加藤和彦や北山修を中心に結成されたフォークルは、1965年から2年ほどの活動を経て、メンバーが就職活動するなどの事情から解散することを決めた。
そして最後のライブとなった10月25日に開かれる第1回「フォーク・キャンプ・コンサート」では、活動の総決算として作った自主制作盤のアルバム『ハレンチ』が販売された。
ところがレコードは50枚ほどしか売れず、在庫の山に困った北山修が宣伝のためにと放送局に持ち込んだことから、プロの目で「帰って来たヨッパライ」と「イムジン河」が発見されるのである。
京都のKBSでは「イムジン河」が流れ始めて好反響を得たが、神戸の関西ラジオでは「帰って来たヨッパライ」がセンセーションを巻き起こしていた。
リスナーからリクエストはがきが殺到した「帰って来たヨッパライ」は、11月に入って電話リクエストの番組で1位になり、関西圏のラジオから頻繁に流れ始めたのだ。
関西だけで流行っている”変な歌”の話を東京に持っていったのは、音楽評論家でDJもやっていた木崎義二だ。
彼から「帰って来たヨッパライ」のことを教えられたニッポン放送の高崎一郎が、これを手に入れて「オールナイト・ニッポン」でオンエアしたところ、爆発的な反響があってそこから全国にまで広まった。
設立されて間もないニッポン放送の子会社、音楽出版社のPMPで社長を兼任していた高崎は、いち早く新入社員を関西に派遣して楽曲の原盤権に関する契約を結ばせた。
その新入社員こそはジャックスや大滝詠一、山下達郎といった新しい才能に注目し、彼らをサポートすることで日本の音楽シーンの発展に貢献するミュージックマンの朝妻一郎だった。
12月25日に東芝レコードから発売された「帰って来たヨッパライ」は、予想をはるかに上回る爆発的なヒットとなり、売上枚数はすぐに100万枚を超えた。
ローカルのラジオ局で発見されて、若者たちの新しいメディアだった深夜放送で火がついた”変な歌”は、驚異的な大ヒットを打ち立てたのである。

交通事故で死んだヨッパライが「♪オラは死んじまっただー」と唄うナンセンスなコミックソングには、どこかに社会風刺のエッセンスが込められていた。それをテープ再生で作られた”変な声”で表現するアイデアは、プロでは考えつかない遊びのイマジネーションだった。
しかも最後にビートルズの「A Hard Day’s Night」をお経にして詠み上げるなど、遊びの精神と音楽のセンスが随所に光っていた。「帰って来たヨッパライ」はそれらを含めて、新しい時代の到来を告げる〝変な歌〟だったのである。
社会現象を起こすほど大きな話題を呼ぶことになるフォークルは、加藤と北山との話し合いで、ドゥーディ・ランブラーズでデビューしたことがあるはしだのりひこを新メンバーに加えて、1年間だけの活動という約束でメジャー・デビューを果たした。
彼らは偶然にコミックソングでヒットを当てたラッキーなグループではなく、フォークとロックが主導する来るべき新しい音楽の時代を牽引する革命児だった。
そのことは解散後にバンドを組んで「風」や「花嫁」のヒット曲で成功した端田宣彦の活躍、ソロになってから多彩な才能を開花させていった加藤和彦、短期間に作詞家として数々の名曲を書いた北山修によって証明されていくことになる。

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