「戦争は知らない」は、稀代の詩人にして劇作家、昭和が生んだ元祖マルチ・アーティストの寺山修司が、おそらくは最初に作詞を手がけた楽曲である。
幼い頃に父を戦争で亡くしている歌詞の「私」は女性だが、当然ながら作者の寺山自身が投影されている。
青森県警弘前署の刑事だった父の寺山八郎は、招集されて出征した後、太平洋のセレベス島でアメーバー赤痢にかかって戦病死した。残された母と子のもとに送られてきたのは骨壷だけ、その中に入っていたのは石ころと枯葉だった。
名前も知られていない野に咲くに花には、”戦で死んだ悲しい父さん”だけでなく、同じように生命を奪われた戦死者たちの無念と、父を奪われた子どもの悲しみが託されている。
これを作曲したのは、大阪のGSグループ、リンド&リンダースの加藤ヒロシである。オリジナルのレコードで歌ったのは、大阪を地元にしていた歌手の坂本スミ子だった。
「ラテンの女王」として知られて坂本スミ子は、1961年から1965年までNHK紅白歌合戦に5年連続で出場したが、そろそろ路線変更を迫られていた。そこで意外とも思われたフォークソング調の「戦争は知らない」に挑戦したのである。
しかし、1967年2月に東芝レコードから出たシングルは、残念ながらまったく不発に終わった。人気司会者だった栗原玲児と1966年に離婚した直後で、しかも30歳を過ぎていた坂本スミ子に、”♫いくさ知らずで二十才になって 嫁いで母に母になるの”という歌詞はそぐわなかったのだ。
ちょうどその頃、京都のアマチュア・グループだったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が、関西のラジオ局から火がついて大ヒットを記録した。
すでに解散していたフォークルは、中心メンバーだった北山修と加藤和彦が、1年だけの期間限定で再結成することにした。そこから、はしだのりひこを加えたトリオで、プロとして積極的に音楽活動を行ったのだ。
その活動のおかげで、埋もれかかっていた「戦争は知らない」がよみがえることになった。
1968年の7月27日に渋谷公会堂で行われたコンサート『当世今様民謡大温習会(はれんち りさいたる)』のなかから、「戦争は知らない」のライブ・テイクが、シングル「さすらいのヨッパライ」のB面に収録されて11月に発売になった。
加藤和彦という音楽家は、誰も気がついていない名曲を見つけ出す、特別の耳と感性を持っていたようである。彼は興味をもった作品に出会うと、洋楽も邦楽も関係なく、ジャンルなどにも拘泥せず、楽曲の本質をつかんでレパートリーに加えた。
このときはA面がまったくヒットせずに終わったのに、新たな生命を吹き込まれたことで、「戦争は知らない」が若者たちに発見されていく。
寺山修司の愛弟子だったカルメン・マキを筆頭に、本田路津子、頭脳警察、加藤登紀子、元ちとせなどのアーティストにカバーされたことで、「戦争は知らない」は一度もヒットしなかったにもかかわらず、21世紀にまで歌い継がれている。
そして、2009年10月16日に自死するまで、加藤和彦も折にふれて「戦争は知らない」を唄っていた。
(注)本コラムは2015年10月9日に公開されました。
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