ザ・フーもそろそろ、大成功を収めるには何か特別なことをしなければならないということに気づき始めていた。
ザ・フーのピート・タウンゼントがそう感じたのは1967年の秋、ちょうどキース・ムーンがテレビ番組で大爆発を起こした頃のことだ。
(テレビ番組で凄まじい爆発を起こして伝説となったザ・フー)
初期の代表曲である「マイ・ジェネレーション」の人気と、楽器を破壊するというパフォーマンスで着実に人気を伸ばしていた彼らだが、その勢いだけで進むには限界が見え始めていた。
翌1968年。ザ・フーは曲を作るために何度かスタジオに入るが、なかなか満足のいくものは生まれなかった。
一方でピートは一つの物語に取り組んでいた。その内容について、ローリング・ストーン紙のインタビューでこのように話している。
今のところ「三重苦の少年」っていうタイトルにしようと思ってる。生まれながらに耳も目も口も不自由な少年が、人生で経験することについての話なんだ。この物語を、ザ・フーが一つのミュージカルとして演奏する。彼は音楽、つまり俺たちが演奏する主旋律によって表現されるんだ。
秋頃からザ・フーは『三重苦のの少年』改め、ロック・オペラ『トミー』のレコーディングに取り掛かった。ピートがメンバーにその世界観や精神性を説明すると、互いに様々なアイデアを出し合い、少しずつアルバムはかたちになっていった。
それからおよそ4ヶ月が過ぎた1969年の2月、ピートはガーディアン紙でレコード評を書いているニック・コーンという若者を紹介される。2人はすぐに打ち解け、空いた時間には一緒にピンボールで遊ぶような親しい仲となった。
ある日、『トミー』についてどう思うか知りたくて、ピートはニックに完成間近のアルバムを聴かせてみた。ニックの感想は「オペラの部分はすごくいいけど、物語がマジメすぎてユーモアに欠ける」という厳しいものだった。
ピートは、主人公のトミーは耳も目も口も不自由だが、実は神から送り届けられたミュージシャンなんだと説明したが、評価は変わらなかった。
「じゃあ、あんまりいい評は書けないってことだな?」
「五つ星とはいかないよね」
「トミーがピンボールのチャンピオンだったらどうだろう。そのせいでたくさんの弟子が集まってくる、っていう感じでさ」
「うん、だったら当然五つ星だろうね――エキストラ・ボールもつけるよ」
この瞬間に「ピンボールの魔術師」の構想は生まれたのだった。
翌日になると、ピートはすぐに「ピンボールの魔術師」を書き上げる。この1曲によって、アルバムの世界観は一変するのだった。
♪でもあんなヤツは見たことがない
どこのゲーセンにもいなかった
耳が聞こえなくて
しゃべることもできず
目も見えないのに
恐ろしいほどピンボールが上手いんだ
「ピンボールの魔術師」が『トミー』のリード・シングルとして3月7日にリリースされると、各所で賛否両論の波紋を呼びながらも全英4位という好セールスを記録する。
そして5月23日に発売されたロック・オペラ『トミー』は全英2位でゴールド・ディスクを獲得。アメリカにおいても最初の2週間で20万枚以上を売上、全米チャート4位となった。
この成功によって、ザ・フーは楽器を破壊するだけのバンドというイメージから脱却し、ドラマ性と内面性に富んだコンセプト・アルバムを次々と生み出していくのだった。
参考文献:
『ピート・タウンゼント自伝 フー・アイ・アム』ピート・タウンゼント著/森田義信訳(河出書房新社)
『「ローリング・ストーン」インタビュー選集』ヤン・S・ウェナー、ジョー・レヴィ著/大田黒奉之、富原まさ江、友田葉子訳(TOブックス)
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