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ブライアン・ウィルソンとビーチ・ボーイズの音楽を大きく変えた「ビー・マイ・ベイビー」

2024.01.16

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1960年代のアメリカを代表するロック・バンドのひとつ、ビーチ・ボーイズ。
ブライアン、デニス、カールのウィルソン兄弟を中心にして1961年に結成されたこのバンドは、サーフ・ミュージックを次々と発信して人気を集めていった。

しかし60年代半ばになるとサーフ・ミュージックは鳴りを潜め、独自のロックを築き上げていく。
そして1966年に発表した『ペット・サウンズ』は、ビートルズをはじめとして数多くのアーティストたちに影響をもたらした。

彼らのサウンドが変化しはじめた1964年は、ビートルズがアメリカへ進出して大ブレイクした年だ。
ビートルズをはじめとしたイギリスのバンドが、ビーチ・ボーイズにもたらした影響は当然のことながら大きかった。

しかしソングライティングを手掛けていたブライアン・ウィルソンによれば、それよりも大きな影響をもたらした音楽があるのだという。
それがロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」だ。

1963年秋のある日、ブライアンがひとりで車を走らせているときのことだった。
カー・ラジオから、突然あの有名なドラムのイントロが流れてきたのである。続いて流れてきた音楽は、それまでに聞いたこともないようなサウンドだった。

「なんなんだこれは!」と叫んで、車を路肩に止め、もう一度サビを聞くために曲の最後まで聞き直した。
(『ブライアン・ウィルソン自伝』より)



メロディや歌、アレンジが素晴らしいのはもちろんのことだが、ことさら驚異だったのは厚みのある不思議なサウンドだった。
ウォール・オブ・サウンドと呼ばれるこの独特なサウンドを生み出したのは、のちにビートルズの「レット・イット・ビー」なども手がけることになる名プロデューサー、フィル・スペクターだ。

「ビー・マイ・ベイビー」を車の中で聞いたのが最初のレッスンだった。二、三日後には、フィル・スペクターが仕事をしていたヴェンチュラのスタジオまでぼくは車で向かっていた。


当時のレコーディング環境では8トラックが広まりつつあったが、4トラックもまだまだ主流だった。要は4つの音しか録音することができなかったのである。

ボーカルでマイクが1本使われるので、残り3本で全ての楽器を録音しなければならず、ドラムとベースでマイク1本というのもよくある光景だった。
また、当時の機材ではロックのような力強い音をそのまま録音するのも困難で、ベースやバス・ドラムといった楽器はレコードだと迫力が失われてしまうのが当たり前だった。

そうした時代に、厚みのある力強いサウンドをレコードで再現する術をフィル・スペクターは独自に生み出した。
同じ演奏を重ねて録音することで音の厚みを増やし、各楽器の音圧を自在に操ったである。

それを実現するには非常に腕のいいミュージシャンが必要となるが、フィル・スペクターはそうした面においても恵まれていた。
フィル・スペクターの音楽を支えた演奏者たちは、のちにレッキング・クルーとして知られることになる。

詳しくはこちらのコラムをどうぞ

フィル・スペクターのもとで音楽を学んだブライアン・ウィルソンは、すぐさまビーチ・ボーイズにそれを取り入れた。
それが1964年の5月に発表された「ドント・ウォーリー・ベイビー」だ。

「アイ・ゲット・アラウンド」のB面は、ぼくがそれまでに書いた曲のなかでもベストのひとつ、「ドント・ウォーリー・ベイビー」だ。フィル・スペクターのことを思いながら書いた曲だよ。



レコーディングの奥深さを知ったブライアン・ウィルソンは、この年の終わりからステージに上がることを拒否し、ソングライティングとレコーディングでビーチ・ボーイズを支えていくこととなる。

カーラジオから聴こえてきた「ビー・マイ・ベイビー」は、ブライアン・ウィルソンの音楽を、そして人生を大きく変えるのだった。

あの曲がぼくの頭脳におよぼしたことと、あそこで鳴っていた音のせいで、ぼくは生まれ変わったようになった。そして、その先へと大きく飛び出していったんだ。


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