1964年は全米チャート・シーンに大きな変化が起きた年だ。
ビートルズを筆頭にイギリスのロック・バンドが次々とアメリカに進出し、全米トップチャートを席巻したのである。「ブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)」とも呼ばれるこの現象により、アメリカ国内のシンガーやバンドは軒並み順位を落としてしまうのだった。
そうした中、イギリスのバンドに対抗する国内のバンドとして、若者たちから支持されたのがビーチ・ボーイズだ。
ビートルズがトップ5を独占するという快挙を成し遂げた4月4日付けのチャートでは13位に甘んじていた。しかし翌月にリリースした「アイ・ゲット・アラウンド」が徐々に売上を伸ばしていき、7月4日付のチャートではついに彼らにとって初の1位をもたらしたのだ。
1961年に「サーフィン」でデビューしたビーチ・ボーイズ。その曲名とバンド名から分かるように、デビューからしばらくはサーフ・ミュージックを売りにしたバンドだった。
だがソングライティングを手がけるブライアン・ウィルソンは、次第にサーフ・ミュージック以外の曲にも挑戦してみたいと感じるようになる。
そうした意識の変化、そしてバンドの成長がサウンド面に大きく現れ始めたのが1964年であり、「アイ・ゲット・アラウンド」だったのである。
このヒットがぼくらをビートルズに続く次なるポップ・アクトにしてくれた。ぼくらのほうがビートルズよりいいっていう人たちもいた。ぼくらの曲は音楽的におもしろいし、洗練されているし、ポジティヴなエネルギーを作り出してくれるというのが理由だった。
(『ブライアン・ウィルソン自伝』より引用)
こうしてビートルズと比較される存在となったビーチ・ボーイズが、人気バラエティ番組『エド・サリヴァン・ショー』への出演を果たしたのは9月27日のことだった。
半年前の2月にはビートルズが出演し、視聴率60%という驚異的な数字を記録したテレビ番組だ。この番組に出たことにより、サーフ・ミュージックから卒業した新しいサウンドのビーチ・ボーイズは、アメリカ全土へと知れ渡ったのである。
ブライアン・ウィルソンは、のちに放送を観たときのことをこのように記している。
ドラムを叩いてるデニスの顔がクローズアップになったときに女の子たちがキャーキャー言うのが、いつも最高に好きだった。カールが「アイ・ゲット・アラウンド」のギター・ソロを弾いてるときに、マイクがおもしろいダンスをしてみせる場面も好きだ。
ビーチ・ボーイズは大きく躍進し、彼らの日常は一気に慌ただしいものになった。誰もがビーチ・ボーイズのこれからに大きな期待を寄せたことだろう。
しかしバンドは、予想だにしない方向へと舵を切ることとなる。その年の12月、ブライアンがステージに上がることを拒否し、作曲に専念することをメンバーに宣言したのだ。
突然バンドが有名になってしまったことに、ブライアンは困惑していた。そして頂点へと登りつめることに、恐怖と虚しさを感じていた。そうしたストレスに耐えきれず、ついにはツアー先へと向かう飛行機の中で失神してしまったのだ。
1964年、それはビーチ・ボーイズにとってまさにターニング・ポイントであり、激動の一年だったのである。
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