ビーチ・ボーイズが1962年にリリースした「サーフィン・サファリ」は、アメリカの音楽シーンに新たな風を吹かせた。
当時の西海岸で人気を集めていたサーフィンをテーマに、軽やかで心地よいサウンドに乗せて歌われるコーラスは、たちまち若者たちの間で人気を集めた。
ビーチ・ボーイズの楽曲の多くを手がけ、そのサウンドの生みの親でもあるブライアン・ウィルソンが、カリフォルニアで生まれたのは1942年の6月20日。
ブライアンの父親は、売れない職業作家だった。息子たちに暴力を振るうのは日常茶飯事であり、母親はそんな現実から目を背けるかのように、昼からお酒に浸っていた。
そんな中でブライアンにとって唯一の救いだったのが音楽だった。
父親はガレージを改造した自宅スタジオにこもっては作曲をしたり、あるいは自分の曲を弾いたりしていた。リビングでは母親がよくレコードを聴いており、ウィルソン家は常に音楽が溢れていた。そうした環境もあって、ブライアンもまた音楽に夢中になる。
父親がピアノを弾いているのを見ては、自分も弾きたいと思うようになり、父親がいないときを見計らっては、こっそりと弾いていた。しかしピアノの大きな音をいつまでも隠し通せるはずもなく、やがて父親の知るところとなる。
ところが父親はブライアンを怒らなかった。それからと言うもの、ブライアンは時間の許す限りただひたすらにピアノを弾いて日々を過ごすのだった。
それからしばらく経ったある日。
ブライアンが母親の運転する車に乗っていると、ラジオから美しくきらびやかな歌が流れてきた。それは今までに聴いたことのないコーラスだった。
「かあさん、僕、これ好きだ! このサウンド、最高に好きだな、誰なの?」
「ザ・フォー・フレッシュメンよ、ブライアン」
ラジオで流れていたのは人気コーラス・グループ、フォー・フレッシュメンが歌う「デイ・バイ・デイ」だった。
1948年に結成されたザ・フォー・フレッシュメン。数多くのコーラス・グループがしのぎを削る中で、彼らはそのハーモニーで他と一線を画していた。
当時、コーラスのハーモニーは1オクターブに収まる中で作られていた。例えばCのコードなら下からド、ミ、ソといった感じで、「クローズハーモニー」と呼ばれている。
それに対し、フォー・フレッシュメンは「オープンハーモニー」という手法を取り入れた。
上の例でいうと例えば真ん中のミを上に持ってきてド、ソ、そしてオクターブ上のミといった具合だ。それによって響きに広がりが出るが、音域も上下に広がるため、一番上のテノールはより高い音が、そして一番下のバスはより低い音が求められる。
今でこそオープンハーモニーによるコーラス・グループは数あるが、その草分け的存在だったのがフォー・フレッシュメンだったのだ。
フォー・フレッシュメンのコーラスにブライアンはかつてないほど熱を上げ、その日からフォー・フレッシュメン以外のことは考えられなくなった。
まもなくして母親にフォー・フレッシュメンのレコードを買ってもらうと、それを擦り切れるほどに聴いて、彼らのコーラスを徹底的に研究した。
誰にだって人生観が変わるような体験があるものだ。宗教的なものであったり、出産であったり、死をみとったり……。僕にとって、そのレコードがまさしくそうだった。それは、僕に人生を変える啓示を与えてくれたようなものだった。
ブライアンがフォー・フレッシュメンから受け継いだオープンハーモニーは、やがてビーチ・ボーイズの瑞々しいサウンドへと発展していったのである。
参考文献:『ブライアン・ウイルソン自叙伝 ビーチ・ボーイズ 光と影』ブライアン・ウィルソン トッド・ゴールド著/中山啓子訳(径書房)

●この商品の購入はこちらから
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから