沖縄民謡の第一人者だった喜納昌永の四男として生まれた喜納昌吉が、近所に住んでいた知り合いのおじさんを題材にして、高校生の頃に作ったとされている歌が「ハイサイおじさん」だ。
1974年の秋に地元だけで発売されていたレコードを日本に持ち帰って、それを細野晴臣にプレゼントしたのは久保田麻琴である。
ロックバンドをやっていた久保田は1974年にアメリカを放浪していた時、自分が作ったアメリカン・ミュージックへのオマージュともいえるアルバム『サンセット・ギャング』が、なぜか”醤油味”に聴こえてくることに気づいたという。
そして帰途にハワイに立ち寄ってみると、日系人や中国人が現地で営む店に漂うキッチュで不思議なアジアに出会った。
私の最初のアジア体験はハワイなんです。
ハワイが面白かったのは凄くアジアだったからなんですよね。
でもそれもアメリカという西洋の国に充分に滞在した経験があったからそう感じられたのかもしれません。
ハワイには日系人のほか、中国系、フィリピン系とたくさんのアジア人が住んでいて、日本では失われかかっていた昔の匂い、アジア的なるものが残っていたという。
そこに独特の混じり方、マルチ・カルチャーの面白さを感じた久保田は、日本人というくくりから解放されて「自分たちはアジア人なんだ」と意識するようになった。
日本に帰国してから思い立ったのが沖縄で、「じゃあ沖縄を見ておかなきゃ!」と足を運んだ先で「ハイサイおじさん」に出会う。
西表島で観光のマイクロバスに乗っていたら、これまで聞いたことがない音楽が流れてきたのである。
八重山を旅行してまして、マイクロバスに乗ってたらカセットでこの曲を流してたんですよ。
調べたら、喜納昌吉とチャンプルーズだった。食べものの名前をバンド名にしてる。
しかも「チャンプルー」って「ミックス」って意味じゃないですか。これがけっこう「来た」んです。
これに刺激されて次の年に細野さんは『トロピカル・ダンディー』っていうアルバムをつくり、私は細野さんにプロデュースを手伝っていただいて『ハワイ・チャンプルー』を作ったわけです。
ああ、こうやって自分達のアイデンティティと、今までもらってきたロックを混ぜるんだ、っていう、そのプロトタイプができたなって思いましたね。
那覇市内のマルフク・レコードに行くと、在庫のレコードを三、四枚出してきてくれたので、久保田はそれを買って友人たちへのお土産にした。
当時の東京では誰にもウケなかったが、唯一人、細野晴臣だけが鋭く反応してくれた。
それを聴いたことで細野は一気に視界がひらけて、自分のルーツだったエキゾチック・ミュージックに開眼したのである。
それがアルバム『トロピカル・ダンディ』から始まる、トロピカル3部作を発表のきっかけになっていったのだ。
1960年代から70年代にかけてのロック・ミュージックは、あらゆる可能性を探って拡散しながら世界を広げていった。
それが日本ではテクノ・ミュージジックのYMOへと結実し、ワールドツアーなどを敢行したことによって世界にまで影響を与えることになる。
細野は『トロピカル・ダンディ』を完成させると、久保田麻琴が率いる夕焼け楽団と一緒にハワイへ渡った。
そしてリラックスした環境で、アルバム『ハワイ・チャンプルー』のをプロデュースしている。
そして日本の音楽ファンのほとんどすべてはこのアルバムに入っていた「ハイサイおじさん」を聴いて、沖縄生まれの”変な歌”を知ることになったのである。
夕焼け楽団の演奏する「ハイサイおじさん」は沖縄民謡のテイストを残しながらもが、スティール・ギターがフィーチャーされてかなりハワイの味がする。
ストレートなカヴァーではなく、ひとひねりもふたひねりもあって、まさにチャンプルー・ミュージックになっているのだ。
アルバム『ハワイ・チャンプルー』は決してヒットしたわけではないが、日本のロックに新たな突破口をもたらしたという意味では、歴史に残る革新的なアルバムとなった。
このように偶然性と必然性の綾が作る音楽の出会いは、限りなく運命的なところにまで人を導いていくから面白い。
ハイサイオジサン/久保田麻琴と夕焼け楽団
マルフクレコード「ハイサイおじさん」