グレイトフル・デッドがサンフランシスコで結成したのは、1965年のことだった。
彼らは伝説のプロモーターとして知られるビル・グレアムがオープンしたライヴハウス、フィルモア・オーディトリアムの看板バンドとなり、サンフランシスコでジェファソン・エアプレインと人気を二分する存在となる。
アルバムセールスはいまいち振るわなかったが、ライヴでのパフォーマンスに定評のあった彼らは、モントレー・ポップ・フェスティバルやウッドストック・フェスティバルといった大舞台に出演し、着実にファンを増やしていく。
初期はヒッピーたちによって人気を支えられていたが、ヒッピー・ムーヴメントが過ぎ去ったあともその人気が衰えることはなかった。
1972年にリリースしたライヴ・アルバム『ヨーロッパ’72』は200万枚以上を売り上げ、その人気が本物であることを証明する。
「Europe ’72」
それから間もなくして初期メンバーでキーボードのロン・“ビッグペン”・マッカーナンが亡くなるという不幸もあったが、1974年には自主レーベル、グレイトフル・デッド・レコードを設立し、さらなる成功を収めていった。
そんな彼らの人気を支えたのが、デッド・ヘッズと呼ばれる熱心なファンたちだ。
彼らは同じツアーであっても何度も足を運んだ。それは単に何度も聴きたいからというだけでなく、常に新しい音楽が待っていたからだ。
ギターでボーカルのボブ・ウィアーは、そうしたアドリブ性の高いステージが、バンドを長く続けられた秘訣だと説明している。
「同じ曲でも演奏するたびに違う試みをしてみて、お互いを驚かせるんだ。次の曲への流れを、ベースがヒントを出して、ドラムスがそれに加わると決まりさ(笑)。誰かが独裁者的に強引に指示するんじゃない。デモクラシーを大事にしてきたのさ」
デッドのコンサートは時代の流れによって衰えるどころかますます人気を集めていき、80年代後半頃には全米の興行成績で常に上位に入るほどだった。
しかし、そんなグレイトフル・デッドの輝かしい音楽活動は1995年8月、ジェリー・ガルシアの死により突如として終わりを迎えてしまう。享年53。死因は心臓発作だった。
残されたメンバー4人はグレイトフル・デッドの解散を発表したが、ジ・アザー・ワンズやザ・デッドなど名前を変えながら活動を続けていく。
バンド結成から50年、そしてガルシアの死から20年を迎えた2015年。
メンバー4人は再びグレイトフル・デッドの看板を掲げ、7月3日から5日までの3日間、再結成コンサートをすることを発表する。
ギターのボブ・ウィアーはビルボードの取材に対し、「おそらくこれが4人揃っての最後のショウになるだろう」とコメントした。
4人による最後のステージという触れ込みもあって、チケットはあっという間に売り切れ、追加された6月27日と28日のチケットも即完売となった。
メンバーが最後の場所に選んだのは、ガルシアにとって最後のステージとなったシカゴのソルジャー・フィールドだった。
ボブ・ウィアーがガルシアと最後の言葉を交わした場所でもあるという。
そんなガルシアの存在をもっとも強く感じることの出来る場所で、最後の3日間は開催され、追加公演や有料放送も合わせて60億円以上という空前の収益を記録した。
コンサート後、ボブはインタビューでこのようにコメントしている。
「誰にこの顚末(てんまつ)を喜んでほしいかって? 天国のジェリー。“Go with the flow!(流れとともに行け)”って、生き方も音楽も教えてくれたビート世代の兄貴、ニール・キャサディ、バンドを応援し続けてくれたたくさんのファンたち。そして家出後、数年して僕がゴールド・レコードを持って里帰りした時、涙を流して喜んでくれた育ての親たちさ」
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<引用元>
「グレイトフル・デッド」の50年をボブ・ウィアーが語る 朝日新聞デジタル&M