ジョニ・ミッチェルが、ミュージシャンを辞めてしまいたくなるほどの挫折を味わったのは、21歳のときだった。
それは1965年の8月6日、カナダのオンタリオ州に位置するカレドンで開催された<マリポサ・フォーク・フェスティバル>に出演したときのこと。
当時、ジョニは同じフォーク・シンガーのチャック・ミッチェルと結婚したばかりだった。故郷のカナダを離れてアメリカのデトロイトに移り住み、2人でミュージシャンとして成功しようと意気込んでいた。
しかし、ステージに立ったジョニに送られたのは歓声や拍手ではなくブーイング、そして「服を脱げ」といった品のない野次だった。誰も自分の歌を聴こうとしていない、そのことが何よりもショックだったという。
「本当に目が覚めたのよ。オーディエンスとどうやってやりあったり、ステージの上で動いたりすればいいのか、私には全然わかってないって気づいた」
自分の未熟さ、そして無力さを思い知ったその帰り道に、ジョニは1つの詩を書き綴った。
数時間前に駅を出た電車を追って
ずっと走っているような気分
どこかへ行きたい衝動に駆られるけど
そんな場所はどこにも残っていないのよ
フォーク・リヴァイバルはもう終わってしまった。自分の好きな音楽を求める観客はもういない。そんな中でいったい何を目指せばいいのか。
ジョニはかつてないほどの挫折感を味わったが、それでもミュージシャンとして生きていくことは辞めなかった。成功の糸口が見つからなくても、自作の歌を書いてはカフェやナイトクラブで歌った。
フェスでの苦い経験から2ヶ月後のある日、夏が過ぎ去って徐々に冷え込んでいくのを感じながら、ジョニはふと帰り道に書いた詩を思い出した。ジョニはその詩のフレーズを引用し、近づく冬から逃れたいという歌を書き上げる。
冬が意味するのは実際の冬でもあり、フォーク・リヴァイバルの冬でもあり、そして結婚生活の冬でもあった(2人は結婚からわずか1年で別れることとなる)。
どこかへ行きたい衝動に駆られるけど
そんな場所はどこにも残っていないのよ
牧草が黄褐色になる頃
夏が枯れ落ちて冬が迫りくる頃
「アージ・フォー・ゴーイング」と名付けられたこの歌は、1967年にカントリー・シンガーのジョージ・ハミルトン4世が歌ってカントリー・チャートで7位となる。
ソングライターとして成功し始めたジョニは、単身ニューヨークに移り住み、シンガーとしても頭角を現し始めた。
レナード・コーエンやデヴィッド・クロスビーらと出会った彼女は、1968年にファースト・アルバム『ジョニ・ミッチェル』をリリースし、ヒットにこそならなかったものの、ミュージシャンや関係者から高い評価を受ける。
続くセカンド・アルバム『青春の光と影』はセールス的にも成功し、彼女の名は一般にも知られるようになった。
そして1970年。ジョニは延べ60万人を動員したといわれる世界最大級のフェス<ワイト島フェスティバル>のステージに立つこととなる。
観客の一部が暴徒と化し混沌とした会場で、ジョニは再び野次やブーイングと対峙することとなった。しかし、かつてのように虚しさの中で打ちひしがれることなく、ジョニは自分の歌を歌いきった。