越路吹雪は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。戦中から戦後にかけて、宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は、“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。
独身時代は“恋多き女”といわれ、作家・三島由紀夫の恋人として取り沙汰されたこともある。作曲家の内藤法美との結婚後は、内藤がステージの構成や作曲などを手がけ、越路が亡くなるまで連れ添った。
1980年11月7日、胃がんのため永眠。享年56。越路吹雪にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。今回は伝説の歌姫・越路吹雪の金銭感覚にまつわるエピソードを紹介します。
──越路吹雪が他界した直後、ある週刊誌に“骨肉の争い”という見出しが躍った。その記事を読んだ政治評論家の細川隆元は、出版元の編集部に電話をかけてこう言い放った。
「越路には争うほどの財産なんかないぞ!」
細川の妻が彼女のファンだったということもあり、夫妻は越路と深い親交を持ちながら、その私生活を知る存在でもあった。細川の発言通り、越路はいくつかの宝石と毛皮しか残さなかった。
全盛期の越路は、文字通り“トップクラス”のスター歌手だった。圧倒的な表現力と歌唱力。一流の劇場で、一流のドレスを身にまとって行なうコンサート。
「越路吹雪の公演チケットは日本一手に入れにくい」とも言われるほどの人気ぶりだった。その出演料も高く、おそらく(当時)他の歌手の追従を許さなかった。とくにホテルでおこなわれるディナーショーやクリスマスショーのギャラは、一晩で数百万円だったとも言われている。
彼女がもしも“その気”になったら、高価な外車や、高級マンションは簡単に買えたに違いない。しかし、彼女は平凡なサラリーマンが住むようなマンションに住み、乗っていた愛車も古い国産車だった。
美容室では、新人の女優や若い歌手の方がよっぽどいい車に乗って来ていたという。越路が通ったヘアサロンのスタッフがそのことを証言している。「駐車場の中で、とにかく一番ボロっちい車が越路さんの愛車でした」
越路は取材などで、何度もこんな質問を受けた。
「越路さんらしく、豪華な車を買われたらいかがですか?」
いつも答えは決っていた。
「オンボロの方が私にピッタリだから」
越路は稼げるだけ稼ぐと、毎年のように外国へ行った。旅行から帰国する際、東京の空港から自宅までのタクシー代もないくらいお金を使い果たしていたらしい。
旅先では、宝石や毛皮を買い込むのが楽しみだった。関税では正直に申告をしていたので、税金をとられると、東京の青山や銀座あたりで買うのとあまり変わらない値段になっていたらしいが、彼女はそういう計算ができない人だった。それを象徴するような逸話が一つ残っている。
「私、近視だから正札のマルをひとつ見落として買ってしまうの。あとになって請求書がくるとビックリするの(笑)」
そんな冗談のようなエピソードを笑いながら語ったが、実は金銭的にだらしない人間ではなく、むしろしっかりしていたという。例えば、海外旅行の時に、ホテルのベッドに腰掛けて、手持ちのドルやフランを数えながら、「あー、あと数日は一日いくらでやっていかないとパンクしちゃうわ!」とボヤくこともあった。
越路吹雪は、一流の芸人になりきろうとしていたのだ。そのために腕を磨こうと、外国へ飛び、本場の空気を吸い、舞台や衣装のアイディアを探し求めた。すべては“芸”のためであり、越路吹雪というスターを演じきるためのものだった。
当時、彼女のスタッフとして働いていた人物もこんな証言をしている。
「確かにドーンと買いますよ。でもそういう時は、いつも決って周りに他人の目があるんです。彼女はその視線を意識しているんです。スターがみみっちい買い方をしていたら、さぞかし周りの人がガッカリするだろう。だから、それはできない。彼女の行動や言動にはいつもそういうサービス精神のようなものがあるんです。でも、あの買い方は凄いですよ(笑)」
金を貯めることをいさぎよしとはしないで、その日に得た金はその日のうちに使ってしまう。そんな江戸っ子の気前のよさを自慢して言うことわざがある。
「江戸っ子は宵越しの銭(ぜに)は持たぬ」
東京・麹町で生まれた越路にも、そんな江戸っ子の血が流れていたのだろうか。昔の芸人・芸能人もそうだった。例えば、銀座あたりで毎晩派手に飲み歩いていた俳優や歌手が、不慮の事故や病気で急逝すると、貯えがないので家族が路頭に迷うという話がある。
「芸人とはそういったもんだ」という意識と、「遊ぶ金くらいはすぐに稼げる」といった自負があったからなのだろう。
(引用元・参考文献:『聞書き 越路吹雪 その愛と歌と死』江森陽弘著・朝日新聞社)
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