昭和12年(1937)。後に越路吹雪となる13歳の少女、河野美保子は宝塚歌劇学校に入った。日中戦争が起き、日本は大陸侵略戦争に突っ走っていた頃だった。そんな戦中から戦後、彼女は宝塚の男役スターとして活躍した。
そして昭和26年(1951)。越路吹雪は27歳の時に宝塚を退団し、東宝専属の女優として主にミュージカルなどに出演するようになる。翌年には『第2回NHK紅白歌合戦』に初出場し、スター歌手への階段を着実にのぼっていく。
♪「ビギン・ザ・ビギン」
ところで、宝塚歌劇学校の卒業式では、毎年校長先生が長い訓話をする習慣がある。越路吹雪が卒業して宝塚のスターになり、さらに歌手として成功したころ、校長先生はこう言った。
「宝塚を出た方で、歌手の越路吹雪という人がいます。あの人は、予科・本科とも卒業する時は宝塚はじまって以来の悪い成績で、これから先、どうなるのかと心配していました。ところが東京に出て、ミュージカルのスターになり、越路節のシャンソンを歌って多くのファンを魅了し、押しも押されもせぬ人気者になりました。ですから、皆さんの中に大変成績が悪い人がいたとしても力を落とさずに、越路吹雪を思い出し、自分を励まして下さい。」
卒業後、煙草を吸って酒も口にするようになった彼女は一日も早く、“清く・正しく・美しい”宝塚の世界から抜け出したいと思っていた。
原因は、宝塚が持つ“不自然さ”にあった。女でありながら男の格好をして舞台に出る。そして陶酔しきった客席のファンから、熱狂的な視線と拍手喝采を浴びる日々。
「私は女よ。ただ男のお面をつけているだけ。」
越路はいつも、そう自分に言い聞かせていた。シャンソン歌手になってから歌い続けた「恋人への愛」「憎しみ」「悲しみ」「嫉妬」など、それらは“女そのもの”だった。
「宝塚の男役が舞台で背広を着るのが恥ずかしくなったら、その子はもう長くはない」と言われている。その頃の越路は自分自身で「長くはない」と思っていた。宝塚で積み重ねた芸が、外の世界でも芸として通用するものなのかどうか? 大袈裟に声を張り上げながら男役を続け、ラブシーンを演じる自分自身がそら恐ろしくなっていた。
しかし、思いきった行動に出られずにいた。意外に堅気で、律儀なところがあったのだ。陰で愚痴ることはあっても、正面きって言えないのだ。
──その後、宝塚を退団して東宝専属の女優・歌手となった越路吹雪は、作家の三島由紀夫の恋人として取り沙汰されたことがある。そんな三島から一度、芝居を酷評されたことがあった。
「コーちゃんの芝居は重いね。台詞を言葉に語らせないで、歌曲風なフィーリングの表現でやってしまうからだ。それと、宝塚時代の男役の妙な直線的な台詞の言い方がまだつきまとっている。」
それを聞いた越路は一瞬青ざめた。宝塚時代から抱いていた疑問や不安を、才能ある作家に指摘されたのだ。自分が一番怖れていた“宝塚のシミ”は、洗ってもこすっても簡単に消えるものではなかった。
マネージャーであり、生涯の親友でもあった岩谷時子は、当時を振り返りながらこんな言葉を口にした。
「あの人は宝塚を忘れよう忘れようとしていました。」
たくさんの仲間たちと過ごしたあの頃。“清く・正しく・美しく”の中で、彼女たちは共に笑い、泣き、そして歌い踊った。地方公演の時は、田舎の旅館で笑い転げながら畳のノミと戦い、臭い布団で一緒に寝た。公演が終わると大浴場で汗を流し、大きなお尻をくっつけ合って洗濯もした。文字通り“裸のつきあい”を通じて、青春を謳歌した。
そんな宝塚を退団しても、彼女たちは先輩・後輩のつきあいを大切にしながら、いわゆる“暗黙のルール”を守ってきたという。紅白への出場を果たし、歌手・越路吹雪として売れ始めた頃にこんな出来事があった。
越路吹雪のリサイタルには多くのファンが詰めかけるようになり、チケットを入手するのも困難になっていた。公演の当日、突然、宝塚のある先輩から電話があった。「友達と観に行くから席を3つとっておいてちょうだい。」
越路は関係者にそのことを伝えたが、当日ということもあり空席はなかった。スタッフにも相談したが、チケットは一枚もあまっていないという。
そして電話機の前で煙草を吸いながら、苦肉の策を思いつく。幸い、この日は親戚が何人かS席を予約していた。結局、親戚に頭を下げて3つの席を空けてもらい、宝塚の先輩に贈った。
その日、笑顔で先輩たちを迎えながらも、その心中では律儀でお人好しな自分に対して腹立たしく思っていた。そして、卒業・退団してまで上級生面(づら)を押し通す先輩へ、やり切れない気持ちでいっぱいだったという。そのときの心情をスタッフにこう愚痴った。
「宝塚のお嬢様には疲れるのよ!」
(引用元・参考文献:『聞書き 越路吹雪 その愛と歌と死』江森陽弘著・朝日新聞社)
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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
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