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TAP the DAY

あんたのバラード〜解散を決めていたバンドが掴んだレコードデビューのチャンス、裏事情を抱えながら世良公則がプロを決断した理由とは?〜

2016.11.25


あんたにあげた 愛の日々を
今さら返せとは 言わないわ
酔いどれ男と 泣き虫女

しらけた笑いに 厚化粧ひとつ
あんたの歌う あの歌を
今夜はあたいが 歌ってあげる

あんたの腕に 抱かれたら
今にもあたいは こわれそう
それでもそいつが たまらない程
あんたを好きに させちまうのよ
あんたと暮らした 二年の日々を
今さら返せとは 言わないわ


この世良公則&ツイストのデビューシングル「あんたのバラード」は、1977年11月25日にリリースされた。
クレジットには作詞作曲:世良公則と記されている。
この発売前月に同曲がポプコン本選会でグランプリを獲得した。
フォーク系シンガーの登竜門として知られたポプコンでロックバンドがグランプリを獲るのは初めてのことで、当時はひとつの“事件”として大きな話題となった。
翌月に開催された第8回世界歌謡祭でもグランプリに輝き、わずか12日後の11月25日にキャニオンレコードからリリースされたのだ。
このグランプリの受賞直後に世良はインタビューを受け、こんなことを語っていた。

「このバンドでプロとしてやるかどうかはわからない。大阪に帰ってみんなと相談します。」

この“みんな”とは誰のことだったのだろう?
世良には(当時のメンバーの)ツイストで歌い続ける意志がなかったという。
実は、バンドは大学の卒業を機に解散することが決定していたというのだ。
ポプコンに出場したのは、その“ケジメ”をつけるためだった。
コンテスト終了後は、世良と同じ大阪芸術大学大学の同級生で別バンドにいて仲の良かったふとがね金太と新バンドを結成しようと約束していたというのだ。
結局、世良はふとがねとの約束を守り、バンドは予定通り解散させ神本宗幸を残し、ふとがねと新メンバーを急ぎ探した。
ふとがねの金太バンドにいた大上明と、関西で名前が知られていた鮫島秀樹、太刀川伸一を勧誘して1977年12月21日、新メンバーで“世良公則&ツイスト”を結成した。このメンバーが、後に一般に知られるツイストなのだ。
そんな裏事情を抱えながら…世良は幸か不幸かコンテストに勝ち抜いてレコードデビューまで果たしてしまったのだ。
最終的に、世良にプロデビューを決意させたのは“悔しさ”だったという。
一体どういうことなのだろう?
世良は当時のことをこう振り返る。

「俺がプロを目指して日々頑張っていたとき、おふくろが“お前のやっている音楽はどんなものなんだ?”と訊いてきたから“矢沢永吉って知ってる?”と答えると“知らない!”という。ものすごく歯がゆかった。俺がプロになりたいと思っている職業を世間はあまり知らない。古賀政男や美空ひばりのことは知っていても、内田裕也は知らないという社会に対して一矢を報いてやりたいという気持ちがあったんです。テレビに出ている歌だけが日本の歌だと思われている現実に対して“こんなものもあるんだぞ!”と言いたかったんです。」

彼は“ロックは食えない”という定説や現実に対する反発をバネにプロになることを決意する。
1977年11月25日にリリースされた「あんたのバラード」は、あっという間に50万枚を超える大ヒットとなり、その後も世良の代表曲として多くのファンに愛され続ける楽曲となった。
翌1978年にリリースしたデビューアルバム『世良公則&ツイスト』は、アルバムチャートで初登場1位を記録。
その後も「宿なし」「燃えろいい女」「銃爪(ひきがね)」などヒットを連発。
当時、ロックバンドの曲がシングルヒットを続けるのはそれまで前例が無かったという。
世良は“御三家”と言われたChar、原田真二と共にロックをお茶の間に持ち込むことに成功する。
不良の音楽と言われていたロックに市民権を与えたという意味でも世良公則&ツイストの功績は大きいと言えるだろう。


<参考文献『フォーク名曲事典300曲』/富澤 一誠(ヤマハミュージックメディア)>

【世良公則オフィシャルサイト】
http://seraproject.com/info/

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