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六角精児 スペシャル・インタビュー【前編】僕の人生は、音楽と酒と下北沢の街によって耕された

2020.01.13

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『相棒』『電車男』『カーネーション』をはじめとする人気ドラマに数多く出演し、独特の存在感を放つ人気俳優・六角精児さん。酒・鉄道・ギャンブルをこよなく愛する六角さんは、無類の音楽好きでもあり、20年以上にわたってバンド活動を行なっているのをご存知でしたか?

2019年12月には、“六角精児バンド”としてセカンド・アルバム『そのまま生きる』を発表。カントリー、フォーク、ブルーグラスのサウンドに乗せて中年男性の悲哀を歌った、充実の作品に仕上がっています。そんな六角精児さんに、音楽についてじっくり語ってもらうスペシャル・インタビューを敢行! 前・後編にわたってお届けします。

取材・文/宮内 健


    六角精児(ろっかく・せいじ)
    1962年兵庫県出身。学習院大学中退。1982年の善人会議(現・劇団扉座)創立メンバー。以降、主な劇団公演に参加。その後、TVや映画、舞台など幅広く活躍。中でも2000年から出演した『相棒』シリーズで人気を博し、2009年には映画『相棒シリーズ 鑑識・米沢守の事件簿』で映画初主演を果たした。1996年に高校の後輩や役者仲間、飲み仲間と「六角精児バンド」を結成し、ライブ活動をはじめる。自身が出演する紀行番組『六角精児の呑み鉄本線・日本旅』で流れる「ディーゼル」収録のデビュー・アルバム『石ころ人生』(2014年)はロングセラーとなっている。2019年12月18日に、セカンド・アルバム『そのまま生きる』を発表した。
    六角精児バンド Twitter

──六角精児バンドのセカンド・アルバム『そのまま生きる』は、なんだかいろんなものが滲み出ている作品で、とても楽しく聴かせていただきました。バンドのアンサンブルもよく、サウンド的にも聴きごたえがあって、そこに重なる六角さんの歌の世界が、もう沁みて沁みて……。

 ありがとうございます。僕はもともと音楽は好きで聴いていたんだけど、歌や楽器に長けていたわけではなくて。30歳を過ぎてから何かやりたいなって思って、バンドをはじめたんです。とはいえ歌の素養もないし、今も全然まだまだなんだけど、20年以上かけて今に至るといった感じです。

──「六角精児バンド」は1996年に結成されたそうですね。

 そうなんですよ。最初は劇団で地方へイベントで行く時に、出し物がないから何か歌でも歌うか? というのが最初だったんです。でも、一人だと難しいから、ギターが弾ける劇団員の有馬自由(註:劇団扉座所属の俳優。現在バンドではパーカッションを担当)を連れて行こうと。さらにバンドっぽくしたいなと思って、ベースも入れて……そんな感じで、なんとなく六角精児バンドを結成したんです。非常に演奏も拙いし、自分たちのオリジナル曲もなかったですから、高田渡さんやいろんなフォークの人たちのコピーをしただけですけどね。それからメンバーも変遷を重ねながら、ちょっとずつ変わっていった感じです。

六角精児バンド。メンバーは写真右上から時計回りに六角精児(ヴォーカル/ギター)、江上徹(ギター/コーラス)、有馬自由(パーカッション/コーラス)、髙橋悟朗(ベース/コーラス)。

──六角さんご自身では、これまで歌を歌ってきたんですか?

 まったくやってなかったです。高校時代はフォークギターでアルペジオ弾いてれば満足してるような人間でしたから。気分は石川鷹彦さんみたいな感じでね(笑)。だから、自分が歌うことなんて考えてなかった。

──なるほど。バンドや新作アルバムの話は後ほどじっくり伺うとして、まずは六角さんの音楽遍歴を紐解いていきたいのですが……音楽にハマっていくきっかけはなんでしたか?

 ラジオですね。小学3年生ぐらいの頃、TBSラジオで『ヤングスタジオLOVE』っていう番組がやってて、そこにフォークの人たちがたくさん出てて。そこで六文銭なんかを知ったんですね。ロイ・ジェームス司会の『不二家 歌謡ベストテン』もよく聴いてたなぁ。5年生ぐらいになって、糸井五郎さんの『ポップスベストテン』で洋楽にも興味を持ちはじめて。当時のトップ10に入ってるものはなんでも聴いてましたね。

──70年代前半ぐらいですか?

 そう。1973、4年ぐらいかな。ポール・マッカートニー&ウィングスの「愛しのヘレン(Helen Wheels)」や、リンゴ・スターの「Oh My My」。ジム・クロウチ、グランド・ファンク・レイルロードがトップテンに入ってましたね。その中に、ジョン・レノンの「Mind Games」があって、それを聴いているうちにビートルズも気になるようになった。初めて「抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)」を聴いた時に、「わっ、すげぇカッコいい!」と思ったんです。そのあとすぐ「I Saw Her Standing There」を聴いて、「これはすごいビートだ!」と、さらに衝撃を受けて。それからビートルズが大好きになったんです。


 あと、ニッポン放送で『日立ミュージック・イン・ハイフォニック』っていう番組があって、そこでボブ・ディラン特集をやってたんですよ。もちろん歌詞はわからないんだけど、トーキング・ブルースのような歌い方がカッコよくて、ものすごく好きになった。ちょうどその頃、家にステレオがやってきて。一番最初に買ったアルバムが、ビートルズの青盤、次に買ったのがボブ・ディランの『Blonde On Blonde』でした。その次に買ったのは、ステイタス・クォーの『Rockin All OverThe World』。どういうきっかけか忘れたけど、ステイタス・クォーとテン・イヤーズ・アフターも大好きになってましたね。


 僕には、小中高から現在まで付き合ってる友人がいて。中学3年でジェスロ・タル聞いてるような奴で、今ではルーツ・ミュージックの話をお互いに交換してるんですけど、アベット・ブラザーズの話を延々と続けられる貴重な友人でね。そういう人たちが隣にいたもんだから、いろいろ影響を受けたんです。高校2年の頃には、アサイラム・レコードの作品が好きになって。トム・ウェイツの中期あたりは、かなり聴き込みましたね。

──学生時代は、楽器には触れてなかったんですか?

 フォークは不良だからって、母ちゃんがフォークギターを買ってくれなかったんですよ(笑)。代わりにクラシックギターを買ってくれたんですけど、古賀政男メロディの教則本がついてるようなやつでね。コードも何も知らないから、糸まきみたいなの(ペグ)をひねると音が変わるのが面白くて遊んでたら、6弦がバチンと切れて。これはやばいと思って、そこから2年ぐらい、ギターには触れずにいました(笑)。

 中学2年の頃、学校に用もないのにフォークギターを持ってくる奴らがいたんですね。ヒットしてからだいぶ経っていたけど、かぐや姫や風の「22才の別れ」なんかを弾くようなブームが訪れたんです。すごい奴はマーチンD28をブルーケースに入れて持ってきてたけど、僕はクラシックギターしか持ってなくて。だけど俺も練習してみようと思って、初めて弾いたのが「神田川」でした。その頃、本当に自分の好きなものはビートルズとボブ・ディランだったんですけどね。

 その後、サイモン&ガーファンクルが人気になって、「The Sound Of Silence」とか練習課題曲が出てくるわけです。彼らの曲の中に「Anji」という、アコースティックギター1本で演奏しているとても難しい曲なんですけど、それをマスターしようと思って、中学3年の夏休みは、延々とその曲ばっかり練習してました。あとはイエスの「Mood For A Day」も。ちょっとだけ弾けるようになって、すごく嬉しかったを覚えてるなぁ。


──人前で演奏するようになったのは?

 高2の頃ですね。当時はベースを弾いてました。ものすごい歌が下手なボーカルと、今も一緒に遊んでるギターの奴でバンド組んで。当時コピーしたのが、ジミヘンの「見張り塔からずっと(All Along the Watchtower)」や、デレク&ドミノスの「Layla」。これがまた、ボーカルが「レイラー!」って怒鳴ってるような歌い方で(笑)。とっても悔いが残る仕上がりだったので、ギターの奴がもう一度本気でやろうということで、ベースも本腰入れて練習して。スラップ奏法なんかも練習して、クリエーションの第三期あたりの曲とか、チャーの「スモーキー」、ジョージ・ベンソンなんかをやるバンドでベースを弾いてました。


──難しいフュージョンも弾けるぐらいに上達したのに、そのままバンド活動は続かなかったんですか?

 大学に入ってから、バンドのメンバーがバラバラになったこともあって、ベースを弾く機会もなくなってね。ちょうどその頃、演劇に興味を持って、劇団に参加するようになったんです。まぁ、演劇に打ち込む振りをして、実際のところはずっと博打を打ってたんですけど(笑)。そんなことを続けているうちに、生活も苦しくなって。芝居をはじめてから13、4年の間でレコードは全部売り払ってしまって、CDも一枚も持ってない、なんの音楽も知らない男になってしまったんです。だから、僕には80年代の音楽がすっぽり抜けてるんです。

──音楽から縁遠い生活を送るようになってしまった、と。

 ただ、その時期に音楽を忘れていたといえばそうなんだけど、飲み屋で流れる音楽は聴いてたんです。一番通っていたのが、下北沢の「レイズ・ブギー」、今の「ラ・カーニャ」でしたから。そこには大塚まさじさん、西岡恭蔵さん、中川五郎さんが出入りしてて。高田渡さんにもそこで会ったし、スタッフとして働いていたのが松竹谷清さん(TOMATOS)でしたね。だから、近くに音楽はあったんですよね。そういうミュージシャンたちが飲みに来るところで飲んでると、「君は何してるんだ?」って声をかけられて。「僕は劇団です」「おお、珍しいやないか」なんて話し込んだりしてね。


 下北沢では他にも、「ストンプ」に行けばブルースの人たちがいたし、「トラブルピーチ」「ガソリンアレイ」もよく行ってましたね。ニール・ヤングが大音量で流れてて、それを聴きながら酒を飲むのが好きだったんです。10代の頃は純粋に音楽を聴くだけだったけど、20歳すぎてからは酒と音楽というものが生活の中ですごく一緒になったんですよね。それが今の自分を育んでいる気がします。積極的に音楽だけ聴いてたというよりは、酒を飲みながら誰かと話してる時に後ろに流れてた音楽が、自分にとって第二のルーツなのかもしれない。

──酒を飲みながらいろんな経験をしていく中で、今回のアルバム『そのまま生きる』の楽曲で描かれているような、六角さんならではの人生観が形成されてきたといいますか。

 やっぱり年を取ると、いろんなことがどうでもよくなってくるじゃないですか? あまりこだわりがないというか。でも、こだわりがない分、ため息が深くなる。ため息の深さみたいなものが、20代の頃からちょっとずつ蓄積していった。たぶん、客がそんな連中ばかりの店で酒を飲んでたと思うんです(笑)。それがたまたまブルーグラスやカントリー、フォーク、ブルースという音楽とフィットしたんでしょうね。

──しかし、そういう居場所を20代で見つけてしまったっていうのは、いいんだか悪いんだかわからないですが(笑)。

 前向きだったりポジティブだったるすることが、あんまりなかったもんですから。20代の頃なんて、本当にひどいもんで。「いいことなんかありゃしねぇ」って、ずっと思ってる感じの。イメージとしては、トム・ウェイツの『Small Change』のジャケットみたいなね。イメージとしてはそんな感じ。20代の頃は後ろ向きなものにやたらと美学を感じてました。昔は、ひどく扱いづらい男だったみたいですよ。それは、いろんな方が言うんですけど、ひねくれてたと。自分で振り返っても、よくこんな人間と付き合ってくれてたなと思います。


──トム・ウェイツもそうですが、ダメな男の生き様に感銘してしまう、ある種のヒロイズムって、男はは誰しも持っているような気がします。だけど、社会的なしがらみもあったりして、そこにどっぷり浸れないものですよね。

 そういうのに浸ってられる時間は、働きだすと短くならざるを得ないですから。僕は「流れ者」って言葉が好きで、その感覚をウディ・ガスリーやライ・クーダーの初期に感じてみたり、あとジャック・ケルアックの「On the road」みたいな世界観に浸れたのは、若い頃の自分に時間がたくさんあったから。幸か不幸か暇だったんですよ(笑)。劇団以外にやることがまったくなかったから、どうやって酒を飲んでたのか覚えてないけど、何時間も飲み屋にいた。そうなると、そこでいろんな人間にも会えて、その人たちと話すようになる。そこで僕は、少しずつコミュニケーションができるようになっていったんだと思うんです。

 若い頃って自意識が強いじゃないですか? とくに当時の俺は自意識が強くて。ここだけの話、自分は何でもできる特別な人間であるだと思ってましたから(笑)。それが、酒だけ飲んでるただの男だって気がついたのが40歳を過ぎてからだった。まさに、今回のアルバムに収録した「ロックなのかロックじゃないのかわからない男のロック」って曲のまんまなんですけどね。



──ものすごく暇で、時間だけはたっぷりあって、お金がないけど、なぜか酒だけは飲める環境にあった。

 その時に付き合ってた女性に、アパート代と小遣いを振り込んでもらって、それで数年生きてましたね。そのお金で僕、毎日飲みに行ってたんですよ。ものすごく感謝しなくちゃいけないんですけどね。不謹慎ながら、自分でなんとかしなければいけないって気がさらさらなかったものですから(笑)。だけど、そういう時間が、僕を耕してくれたんだと思うんですね。

 実は一時期、いろんな事情で生活が本当に立ち行かなくなったことがあったんです。でも、劇団だけはなんとか続けていた。そんな自分の芝居を好きでずっと観に来てくれていた人が、僅かながらいて。その中の人が、10年、20年後にテレビ局とかで力を持ち、「あいつをキャスティングしよう」と手を差し伸べてくれた。そういうきっかけも、自分が芝居を続けてこなかったら訪れなかったわけですからね。こうして続けてこれたのは、うちの劇団扉座の代表である横内謙介のおかげだし、本当に流れるように生きてきたけど、いろんな人に助けられて今がある。だから、「自分はダメだとか、もう生きていけない」っていう人がいますけど、本当にそうなのかな?と思いますね。まわり応援してくれる人がいるかもしれないし、たとえいなくても、余計なことを考えず目の前にある仕事や人のことをしっかり考えてやっていけば、光が見えてくるんじゃないかっていう。うん。それこそ「そのまま生きる」っていうよりも、「そのまま生きろ」ってことですかね。

*【後編】はコチラ

六角精児バンド『そのまま生きる』

六角精児バンド
『そのまま生きる』

(HOMEWORK)




六角精児バンド『そのまま生きる』レコ発ツアー
2020年2月20日(木)兵庫・神戸メリケンパークオリエンタルホテルVIEW BAR
2020年2月21日(金)兵庫・神戸CHICKEN GEORGE
2020年2月22日(土)愛媛・松山 風来坊
2020年2月24(祝)福岡・大名 LIV LABO

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