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ストーンズとの共演でようやくロックに目覚めたピート・タウンゼント

2024.09.07

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ザ・フーのピート・タウンゼントとロックの出会いは、同じ時代を生きた多くの少年少女と同様にビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」だった。

この歌をはじめて聴いたときには「度肝を抜かれた」と自伝で語っている。ところがピートが他の若者と違ったのは、わずか数ヶ月でビル・ヘイリーから興味を失ってしまったということだ。

ビル・ヘイリーと入れ替わるようにしてチャート・シーンに登場し、絶大な人気を誇っていたエルヴィス・プレスリーさえも、「理解できなかった」という理由で大して聴いていなかったという。

ピート・タウンゼントがロンドンで生まれたのは1945年5月19日。父はスイング・バンドに所属するプロのクラリネット兼サックス奏者、祖父もフルート奏者兼作曲家という、音楽一家の生まれだ。

家ではフランク・シナトラの他、エラ・フィッツジェラルド、デューク・エリントン、カウント・ベイシーといったジャズが流れ、ピートはそれらを聴いて育つ。

よく父の演奏を観に行っていたピートは、ある日共演者が吹いていたハーモニカに興味を持ち、父の持っていたハーモニカを吹くようになるのだった。

父の影響もあってジャズっぽい音楽を好んでいたからか、ピートはロックンロールにそこまで熱を上げなかった。一方で幼い頃からの親友であるジンピーはすっかりのめり込み、ある日父親に作ってもらったというギターを持ってピートの前に現れる。

その手作りのギターを弾かせてもらったピートは、誰に教わったわけでもないのに曲を演奏することができた。これがきっかけとなり、ピートは祖母からレストランに飾られていたという古いギターを買ってもらい、ハーモニカからギターに転向するのだった。

それからほどなくしてロックンロールに夢中な知り合いとバンドを組んだピートは、本格的にロックの世界に踏み込んでいく。1962年にはのちにザ・フーのメンバーとなるロジャー・ダルトリーとジョン・エントウィッスルのバンド、ディトゥアーズに加入した。

ところがその頃に虜になっていた音楽はロックではなく、ブッカー・T&ザ・MG’sやジョン・リー・フッカーといったリズム&ブルースで、中でもお気に入りだったのがジミー・リードだ。

シンプルなリフが、彼の妻の手になるシンプルな歌詞を支えていた。ステディな低いベースと、ダッダダッダと刻んでいくリズム、そして甲高いハーモニカのソロが、哀切感にあふれてどこか年寄りくさい、揺れるようなリードの声の背景を作りあげていた。同時に、その音楽には絶対に忘れられない何かがあった。いささかブッ富んだ状態で彼のレコードを何枚も続けて聞くと、強くそう思った。



そんなピートが本当の意味でロックに目覚めたのは1963年12月22日のことだ。その日は2ndシングル「アイ・ワナ・ビー・ユア・マン」をリリースして人気急上昇中だったローリング・ストーンズの前座だった。

(前略)私はシニカルな態度に徹しようと決めていた。どうせ彼らの評判なんて、あのヘアスタイルのおかげだと思っていたからだ。だが、度肝を抜かれてしまった。
(中略)
ステージの袖からライヴを見ていた私は、その場で終生のファンになった。ミックには神秘的な魅力と性的な喚起力があった。そんな組み合わせなんて、エルヴィス以来だろう。


この日を境に、ピートのギターも大きく変化する。それまでは主にブッカー・T&ザ・MG’sのギタリスト、スティーヴ・クロッパーのスタイルを参考にしていたのだが、よりロックらしい音を生み出そうと音量を目一杯上げ、自己流でフィードバック奏法を編み出した。

同時にそれまで通っていたアート・スクールも辞め、ピートは本格的に音楽の道を進むことを決意するのだった。

ストーンズとの共演から2ヶ月後、ディトゥアーズは同名のバンドがいるという理由でザ・フーへと改名し、新たにキース・ムーンをドラマーとして迎え入れる。

彼らが「マイ・ジェネレーション」で大ブレイクする2年前、ピートの変化とともにザ・フーは大きく動き始めるのだった。

参考文献:
『ピート・タウンゼント自伝 フー・アイ・アム』ピート・タウンゼント著 森田義信訳(河出書房新社)


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